試験勉強における「理解」とは | 司法試験情報局(LAW-WAVE)

司法試験情報局(LAW-WAVE)

司法試験・予備試験・ロースクール入試の情報サイトです。司法試験関係の情報がメインですが、広く勉強方法(方法論)一般についても書いています。※ブログは完全に終了しました。コメントなどは受け付けておりません。ご了承ください。

★今回の記事は、S式1問1答重要論点問題集 で書いた内容の一部を大幅に膨らませたものです。

書評記事からは独立させて単独のエントリーとして残しておきたい、と思って再録することにしました。

 


【理解とは何か】

ある事柄を理解 しているかどうかということの意味は、実際には極めて多義的です。
今回はこの「理解」というワードを、日頃使っているよりも厳密に考えてみたいと思います。

勉強には様々な「理解」があり、それを身に付けるための様々な方法があります。

 

たとえば、しっかりと基本書を読み込めること理解と呼ぶなら、その理解を身に付けるには、しっかりと基本書を読み込むしかありません。

そしてその理解は、試験問題が解けるようになることとは本質的に何の関係もありません。

この点については、基本書を読んでも論文が書けるようにはならない を参照してください。

あるいは、ある概念と概念との結びつきに気づいたり、特定の概念をもっと深い視点から説明できたりするような、気の利いたトリビア的な説明ができる能力理解と呼ぶなら、その理解を身に付けるには、様々な教材に手を出しまくって、それこそ理解・記憶の範囲を見境なく広げていくしかありません。

すなわち、ある事柄を理解しているかどうかということは、その人が何をしたいかという目的無関係ではないのです。むしろ、目的に沿って何かができることが人が理解と呼ぶものの実質であって、その逆ではない気がします。

つまり、理解とは、あくまでも目的との関係で相対的に定義されるものに過ぎないのです。

しかし、司法試験の世界に限らず、受験生はこの「理解」という漠然とした代物が大好きです。

何の目的かは問わず、とにかく少しでも多くの「理解」を集めたがります。

 

司法試験受験生の間でカッコ付きで「実力者」と(時に尊敬の念をこめて)呼ばれる人たちの多くは、総じてこうした「理解」のパラノイア的なコレクターです。


【理解しているから→問題が解ける…のか?】


このように受験生たちが理解を集めたがるのは、彼らに一つの誤解があるからです。

 

その誤解とは、①理解しているから→②問題が解ける という誤解です。

 

たとえばAさんが「問題が解ける」のは、Aさんがその事柄を予め「理解」しているからに違いない、という風に、「理解」が「問題が解ける」こと論理的に先行すると思い込んでいるのです。

すなわち、①理解すれば→②問題が解けるという①原因→②結果の関係が存在すると勘違いしているのです。これが、受験生たちが、「問題を解く」より先に「理解」を身に付けたがる最大の要因です。


しかしながら、両者の関係はそのような原因-結果の関係ではありません。

むしろ、「問題が解ける」ことが、その人の「理解」を遡って認証しているといったほうが正しいのです。


【理解とは、
遡及的・関係的なもの】

どういうことか、もう少し説明します。

 

理解は、いわば一種の機能であり関係性です。実体ではありません

 

何かを理解するや理解される知識は、明確な実体とひとまずは言ってよいと思います。

しかし、当の理解は、「私」や「知識」のような実体ではありません。

理解が独立に存在する実体であるかのように考えるのは、実は大きな誤解です。

 

ここで「実体」と呼んでいるのは、それ自体を独立に採り上げることができるもののことです。

理解には、それ自体を単体で採り上げることができるような独立性はありません

たとえば、理解とは、遡及的なものです。

まず、「理解」があって、次に、その「理解」のおかげで何かができるようになることは実はありません。

そうではなくて、その人が何をしたいかという「目的」がまず先にあり、次に、その目的に則して何かができるようになった段階で、その人が遡及的に「理解」をしていたということになるだけの話なのです。


理解の存在は、目的に則した思考や行為ができた結果、後からその存在が認められるものです。

このように、「理解」は「目的」とセットでなければ存在できません。そういった「目的」を何ら確定させることなく、「理解」だけを独立に採り上げて何かを理解しようとするのは、意味不明かつ不可能なことです。

 

もうひとつ、理解とは、「私」と「目的」との間に発生する関係性です。

たとえば、私が、ある問題が解けるようになりたいとします。

 

ここで、「私」という主体と、「問題が解ける」という目的を、関係的に繋ぐものこそが理解です。

いわば、「私」と「問題」とを繋ぐ結節点(関係性)として機能するのが理解なのです。


※図式化すると、

(実体) ―― 理解(関係性) ―― 問題(実体)

 

・・・となります。

 

理解という概念には、このように何かと何かを繋ぐつなぎ目(関係性)という意味が含まれています。


このように、「私」が「問題」にアプローチすることを可能にするのが「理解」という名の通路です。

「私」と「問題」とを繋ぐ回路こそが「理解」なのです。

「回路」があるということは、すなわち、入口(始点)出口(終点)があるということです。

回路の存在に先立って、予めこの2つ(両端)が存在していなければ、「回路」はできません。

 

A君とB君が良好な関係であろうと気まずい関係であろうと、2人の間に何らかの「関係」が生じるには、当り前ですが、A君B君の2人がいなければなりません。A君一人だけでは「関係」は生じません。


同様に、試験対策という観点に立った場合、「私」や「問題」の存在なしに「理解」はあり得ません

 

理解は何かと何かの間(関係性)としてしか機能しない以上、「私」だけがいても「理解」は生じませんし、「問題」だけがあっても「理解」は生じません。

 

再三申し上げているように、理解は独立した実体ではないからです。

 

「私」と「問題」の2人がいてはじめて、そして、その「私」が「問題」と繋がった(問題が解けた)という事実が確認されてはじめて、そこからようやく「理解」の存在が認証されるのです。

 

つまり、

 

①私(実体)と問題(実体)の2つが先に存在する。

          ↓

②そして、「私」が「問題」を解くことができた(関係性が発生した)という事実が確認される。

          ↓

③その結果、事後的or同時的に、その関係性が「理解」と名付けられる。

 

これが正しい順序です。

このように、理解とは実体のない一種の働き(関係性)であって、それだけでは幽霊みたいなものです。

その幽霊に魂を吹き込むには、「私」が「問題」を「解く」という具体的な過程が必要なのです。

 

理解を独立した実体と勘違いして、まずはその「理解」を集めることから始めようとする発想(勉強法)は、いかにもセンスの悪い受験生が好みそうな、物事の道理を弁えない筋違いの発想に他なりません。

 

 

根源的に試験に強い受験生は、ある試験に合格したいと思ったとき、まず、その試験に合格することは、誰が何をすることなのかと考えます。そして、そのためには誰が何をする必要があるのかと考え、最後にその「何」を実行していくのです。

 

優秀な人は、常にこういった単純な(論理的な)ルートに乗って思考を進めていきます。

 

誰が何をというときの「誰」はふつうは「私」でいいでしょうけれど、「何」のほうはとても難しい。

多くの受験生が、この「何」を正しく導くことができずに、早々にルートから外れていきます。

 

ちなみに、私はこの「何」のほうを極めてきましたが、実をいうと「誰」のほうは見事に何も考えていませんでした。

「誰」のほうは誰でもよかった…といったら少し言い過ぎですが、「何」のほうしか考えてこなかったのは事実です。

 

もちろん答えは単純で、「何」「司法試験の問題が解けること」に決まっています。

 

この単純な論理を辿ることが、しかし如何に難しいか。

この難しさを伝えるためだけにこのブログは存在している…と言っても過言ではないくらいです。

 

多くの受験生がこの「何」を、「司法試験の問題が解けるようになるための何だか分からない強大な力」のようなものと考えます。そして、この「強大な力」を身に付けることができれば、凡庸な自分にも司法試験の問題が解けるようになるのだろう…と無闇に話を複雑にしていくのです。

 

多くの受験生は、このように屈折した論理でものを考えます。

目的地に向かって一直線にルートを走るのではなく、まず何かの中継地点を暫定的な目的地に据えて、その中継地点を経由してから本来の目的地へと向かおうとするのです。

 

こんな風ですから、彼らの「何」は、いつまで経っても「問題を解く」という端的な解に辿り着きません。

というか、そもそも辿り着きたくないから、「強大な力」という脇道に逃げ込むのです。

 

 

【問題を解きましょう】

このように、司法試験対策(あるいはもっと広く試験対策)の観点に立った場合、理解が何を意味するのかは簡単明瞭です。

すなわち、試験勉強において、「理解」しているとは、「問題が解ける」ことに他なりません

 

問題が解ければ、理解していると言い張って100%構いません。

 

反対に、ある受験生がどれだけたくさんの「理解」をひけらかしたところで、問題が解けなければ理解していることには100%なりません

このように、試験対策の観点に絞っていえば、理解の有無は簡単に切り分けられるのです。

どんなに必死に基本書を「理解」しても、ローの先生に「君はよく理解してるね~」と褒められたとしても、問題が解けなければ、それだけで試験という観点からは100%理解していないことが確定します。

目的意識の拡散 で述べた、試験という目的に定位するとはそういうことです)

試験対策の観点から定義される「理解」とは、このように争いが生じる余地がないほど残酷で明瞭なものなのです。

 

そうであれば、基本知識の修得が済んだ受験生がなすべき理解は、ただ一つしかありません。

それはすなわち、問題を解くことです。そして、解けるようになることです。

これが試験勉強の最も正しい「理解」です。

その他のいかなる勉強も、的からどれだけ離れているかは別としても、総じて的外れです。


受験界では様々なタイプの受験生が、今日もまためいめい様々な「理解」に勤しんでいます。

それらが全て無駄とは言わないまでも、少なくとも、的の中心から外れていることは確かなようです。

 

そんな的外れな「理解」をコレクションしている暇があるなら、司法試験を真に「理解」するべく、もうさすがに問題を解かれたほうがよろしいのではないでしょうか、と言いたくなります。