翻訳をしていると、辞書を引いて正しい訳語を選んだはずなのに、実は間違っていたということがある。
そんなときに大切なのは、単語だけを見るのではなく、文章全体の論理を追うことである。
Carl Benedikt Frey の How Progress Ends に、こんな一文が出てきた。
Consider the destruction of Denis Papin’s steam digester in 1705.
Denis Papin(ドニ・パパン)は、17世紀から18世紀にかけて活躍したフランスの物理学者・発明家である。
そして steam digester といえば、パパンが発明したことで知られる、蒸気の圧力を利用した装置 Papin's digester が思い浮かぶ。現代の圧力鍋の先駆けとされるものである。
そこで最初、私は、
1705年にドニ・パパンの蒸気圧力釜が破壊された事件を見てみよう。
と訳した。
辞書的には、いかにも正しそうに見える。
しかし、これはおかしい。
後ろを読めばわかる。
文章はこう続いている。
Even though his friend and mentor, Gottfried Leibniz, had written to the Elector of Kassel, asking for Papin to be granted free passage, no petition was granted. When Papin decided to embark on his journey anyway, the boatmen’s guild, who monopolized the river traffic on the Fulda and Weser, smashed the steam engine to pieces when his boat arrived at Münden.
ここには、
free passage
river traffic
his boat
そして決定的な、
the steam engine
という言葉が出てくる。
パパンの友人であり、師でもあったゴットフリート・ライプニッツは、パパンの蒸気機関を搭載した船が自由に川を運航できるようにカッセル選帝侯に書簡で求めていた。
その願いは聞き入れられなかった。
それでもパパンは蒸気機関を搭載した船で川を進もうとした。
ところが船がミュンデンに到着すると、フルダ川とヴェーザー川の河川輸送を独占していた船頭ギルドが、
the steam engine を smashed ... to pieces――蒸気機関を粉々に破壊した。
どう考えても、ここで問題になっているのは「蒸気圧力釜」ではない。
船に搭載された蒸気機関である。
したがって、最初の一文も、
1705年にドニ・パパンの蒸気機関が破壊された事件を見てみよう。
と訳すべきだった。
もちろん、ここには原文側の問題もある。
最初は steam digester と書いておきながら、数行後では the steam engine と書いているからだ。
しかし、こういうことは本を訳していると決して珍しくない。
原文は常に完全に整合しているとは限らない。
著者が言葉を取り違えることもあれば、同じものを別の言葉で呼ぶこともある。説明が不足していることもある。
だから翻訳者は、原文に書かれた単語を一つずつ日本語に置き換えるだけではいけない。
今回の場合、
なぜライプニッツは通航許可を求めたのか。
なぜ船頭ギルドが登場するのか。
なぜ船がミュンデンに到着したところで破壊されたのか。
そして、
いったい何が粉々にされたのか。
そこまで読んで論理をつなげれば、「蒸気圧力釜」という訳がおかしいことに気づく。
これは翻訳でとても大切なことである。
わからない単語が出たら辞書を引く。
もちろん、それは基本だ。
しかし、辞書に出ている訳語が、その文章で正しいとは限らない。
一文だけで決めず、その先まで読む。
前後の事実関係をつなげる。
そして、文章全体が論理的に成立しているかを考える。
辞書だけでなく、論理で訳す。
今回の steam digester は、そのことを教えてくれる面白い例だと思う。
