上杉隼人 GetUpEnglish

上杉隼人 GetUpEnglish

日常よく使われる英語表現を毎日紹介します。毎日日本時間の午前9時までに更新します。英文執筆・翻訳・構成・管理:上杉隼人

毎日更新! GetUpEnglish Updates Every Day! Since April 1, 2006 (c) 2006-2025 Uesugi Hayato(上杉隼人)

翻訳中、こういう一文に出会った。

the Tsarist regime continued to impose significant restrictions on private sector development

最初はこう訳した。

ツァーリ体制は民間部門の発展に大きな制約を課しつづけた

意味は合っている。だが「課しつづけた」がどうにも硬い。

なぜ硬いのか

原因は動詞の性質にある。「課す」は、一回の行為として完結する動詞である。判決を下す、罰を科す、義務を課す——いずれも、その瞬間に成立して終わる。

 

そういう動詞に「つづける」(続ける)を付けると、同じ行為を何度も繰り返した、という像が立つ。制約を課し、また課し、さらに課し……という反復である。だが原文が言っているのはそこではない。制約が課された状態が変わらなかった、ということだ。

 

英語の continued to は、こういう区別をしない。一回的な動詞にも継続的な動詞にも同じように付く。日本語の「〜しつづける」はそうはいかない。動詞の側が継続を受け入れるかどうかで、収まりが変わる。

 

「歩きつづける」「話しつづける」「降りつづける」——これらは自然である。もともと時間的な幅を持つ動作だからだ。「課しつづける」「決めつづける」「気づきつづける」が不自然なのは、動詞自体に幅がないからである。

四つの処理

1. 状態として言い直す

ツァーリ体制は民間部門の発展に大きな制約を課したままだった

「〜したまま」は、行為の反復ではなく状態の持続を示す。一回的な動詞と相性がよい。

  • He continued to hold the position. → その職に就いたままだった
  • The door continued to stay open. → 扉は開いたままだった

2. 副詞で処理する

ツァーリ体制は依然として民間部門の発展に大きな制約を課していた

継続の意味を副詞が引き受け、動詞は単純形で済む。「依然として」「なお」「相変わらず」「引き続き」。

この形の利点は、変わらなかったという含意が出ることにある。continued to は多くの場合、他が変わったのにこれは変わらなかった、という対比で使われる。上の例でも、ドイツや日本が方向転換したのにロシアだけが旧態のままだった、という文脈だった。「依然として」はその対比を自然に運ぶ。

  • Prices continued to rise. → 物価は依然として上がっていた
  • She continued to deny it. → 彼女はなお否定していた

3. 継続に馴染む動詞に変える

ツァーリ体制は民間部門の発展を大きく制約しつづけた

「課す」を「制約する」に変えると、「つづける」がすんなり収まる。「制約する」は状態を作り出す動詞なので、持続と衝突しない。

訳語を一つずらすだけで解決することは多い。

  • continued to give support → 支援を与えつづけた(硬い)→ 支援しつづけた
  • continued to make demands → 要求を出しつづけた → 要求しつづけた

4. 何もしない

そもそも訳出しなくてよい場合がある。文脈がすでに継続を示しているなら、「つづけた」は情報を足していない。

Throughout the 1890s, the government continued to resist reform. 1890年代を通じて、政府は改革に抵抗した。

「1890年代を通じて」がある以上、「抵抗しつづけた」と書く必要はない。英語が continued to を置いたのは、時間句との呼応として自然だからで、日本語では冗長になる。

「つづける」が二度出たら

今回の訳文には、同じ段落にもう一箇所 continued to があった。

the Tsarist state continued to undermine it ツァーリの専制国家は民間企業の発展を妨げつづけた

こちらは「妨げる」が継続に馴染む動詞なので、それ自体は問題ない。だが一段落に「課しつづけた」「妨げつづけた」と並ぶと、形が目立つ。

同じ処理を繰り返さないことも判断のうちである。片方を副詞で処理し、片方を「つづける」で残せば、形の反復は避けられる。英語は同じ構文を何度使っても気にならないが、日本語は形が揃うと目につく。

kept -ing の場合

continued to の親戚に kept -ing がある。こちらは繰り返しの含意が強い。

He kept asking the same question. 同じ質問を何度も繰り返した。

「訊きつづけた」でも通るが、kept には話者のうんざりした気分が乗っていることが多く、「何度も」「しつこく」のほうが近い場合がある。continued to が中立的なのに対し、kept -ing は評価を含みやすい。

The machine kept breaking down. 機械は故障ばかりしていた。

「故障しつづけた」では、壊れた状態が続いたように読める。実際には、直しても直しても壊れたということなので、「ばかりしていた」が合う。

まとめ

英語の continued to は文法的な標識にすぎず、それ自体はほとんど目立たない。日本語の「〜しつづける」は、置けば目立つ。ここに非対称がある。

だから一対一で置き換えると、原文になかった重さが訳文に生まれる。処理の選択肢は、状態として言い直す、副詞に逃がす、動詞を変える、訳出しない——この4つ。どれを選ぶかは、動詞の性質と、前後に同じ形が出ていないかで決まる。

翻訳をしていて出会うと、少し立ち止まってしまう単語がある。今回は concession とその形容詞形 concessionary について取り上げたい。

 

一般的に concession と聞くと、多くは「譲歩」という意味を思い浮かべるだろう。

 

The company made several concessions to the union. 

「会社は組合に対していくつかの譲歩をした」

 

しかし、政治や経済、法律の文脈では、まったく違う顔を見せる。政府や権力者が特定の企業などに与える「特権」「営業許可」「採掘権」といった意味になるのである。

 

たとえば、歴史や経済の文献を読んでいると、次のような表現に出くわすことがある。

 

a concessionary system of incorporation

 

これを「譲歩的な会社設立システム」と訳してしまうと、まったく意味が通じない。 ここでは「政府からの特別な許可(特権=concession)がなければ会社を作れない制度」、すなわち「特別許可制(特許主義)」を指しているのだ。

 

この「特権」「許可」というニュアンスは、実はもっと身近なところでも使われている。 映画館や遊園地、スタジアムなどにある「売店」のことを、英語で concession stand(または単に concessions)と呼ぶ。これは、施設側から「そこで商売をしていい」という営業許可(concession)を与えられた場所だからだ。

 

I'm going to the concession stand to get some popcorn. 

「ポップコーンを買いに売店に行ってくるよ」

 

また、concessionary には、高齢者や学生向けの「割引の」という意味もある。イギリスの交通機関などでよく見かける表現だ。

 

concessionary fares for students and senior citizens 

「学生や高齢者向けの割引運賃」

 

「譲歩」から始まり、「特権・許可」、そして「売店」や「割引」まで。 文脈によってガラリと意味が変わる単語だけに、辞書の2番目、3番目の意味にこそ注目してほしい。

 

河出書房新社の公式サイトとYouTubeで、『最新科学が証明する ひとり時間のすごい力』の著者ロバート・コプランさんへのインタビュー動画が公開されました。

https://www.youtube.com/watch?v=p0lrk9ZWbEg

 

2026年6月26日、韓国での学会を終えたコプランさんが、パートナーのクリスティさんとともに日本に立ち寄ってくださり、河出書房新社でおよそ1時間、お話をうかがうことができました。

 

コプランさんはカナダ・カールトン大学の発達心理学者で、30年以上にわたって「ひとりで過ごすこと」を研究してこられました。出発点は、大学院時代に幼稚園の校庭で子供たちを観察していた時のことだそうです。内気な子供たちはたいていひとりで遊んでいる。ところが観察を続けるうちに、ひとりで遊んでいるのに内気には見えない子供たちがいることに気づきます。誘われれば一緒に遊ぶけれど、そのあとはまたひとりに戻って積み木を積んでいる——。その光景から、30年の研究が始まりました。

 

動画では、本書の中心にある考えが著者自身の言葉で語られます。solitude(ひとりで過ごすこと)と loneliness(孤独)は違う。孤独は「嫌な感情」だが、ひとりで過ごすことは「ひとつの場所に身を置くこと」である。そこで何を感じるかは、自分で選んだ時間かどうかによって変わってくる——。

 

著者が提唱する aloneliness(日本語版では「ひとり時間不足感」と訳しました)についてもくわしく語られています。ひとりの時間が足りないと、人は孤独を感じる時と同じようにストレスを感じ、苛立ち、悲しくなる。日本のように誰もが忙しく過ごしている社会では、とりわけ考える価値のある指摘だと思います。

 

「ひきこもり」についても、AIとひとりの時間の関係についてもおたずねしました。AIと話している時、わたしたちは「舞台の上」にいるのか。コプランさんご自身が「次の本のテーマになるかもしれません」とおっしゃったほどで、次作の予告篇にもなりました。

 

インタビューの途中、コプランさんのほうから「日本語には solitude と loneliness を区別する別々の言葉がありますか」と質問され、答えに窮する場面もあります。訳者としていちばん苦しんだところを、著者本人に突かれた格好です。

 

なお、インタビューの最中に地震があり、ふたりで慌てる場面もあったのですが、この部分は残念ながら動画には収録できませんでした。

 

制作にあたっては、河出書房新社の清水朋哉さんに大変お世話になりました。当日同席された清水さんからのご質問が、このインタビューを決定的によいものにしてくれました。編集は左右田勇志さんに手伝っていただきました。記して感謝申し上げます。

 

コプランさんからも「すばらしい出来だ」と言っていただき、ご自身の大学の講義で学生さんたちに見せてくださるそうです。

ぜひご覧ください。

 

ロバート・コプラン『最新科学が証明する ひとり時間のすごい力』(上杉隼人訳、河出書房新社)

四六判 345ページ 定価2,200円(税込)
ISBN978-4-309-23201-0

 

 

英日、日英翻訳のどちらをしていてもすぐにわかることだが、原文に書かれていることが、事実として正しいとはかぎらない。

任天堂のゲームの歴史を扱った英語の本を訳している。『星のカービィ ディスカバリー』(2022)について、著者はこう書く。

I've seen few things funnier in a Nintendo game than Kirby wrapping himself around a lightbulb and opening his gaping maw to reveal the light shining from within.

wrap oneself around ... は「……に身体を巻きつける」。辞書どおりに訳せば、こうなる。

カービィが電球に身体を巻きつけ、ぱっくりと口を開けると中から光が漏れ出す。

語義に誤りはない。日本語としても通る。

 

しかし、これは事実と違う。

 

このゲームの「ほおばりヘンケイ」は、カービィがアイテムを口に含んでその形に変わる能力である。任天堂の公式サイトも「未知なる世界に散らばるアイテムをほおばることで、カービィがヘンケイ」と説明している。電球の場合も同じで、発売時には「でんきゅうほおばり篇」というショートムービーが公開された。カービィは電球をほおばっているのであって、外側から巻きついているのではない。

 

ここで大事なのは、原文の後半が、その証拠になっていることである。

opening his gaping maw to reveal the light shining from within

口を開けると、中から光が見える。これは電球を口に含んでいるからこそ起こることだ。もし本当に外側から巻きついているだけなら、口を開けても中に光はない。

 

つまり原文は、前半の wrap himself around と後半の from within が噛み合っていない。著者は、カービィが電球を丸ごと包み込んでいるように見える映像を思い出しながら、その見え方をそのまま wrap around と書いたのだろう。英語としては自然だが、仕組みの説明としては正確でない。

 

そこで、こう訳したい。

カービィが電球をぱくりとほおばり、大きな口を開けると中から光が漏れ出す。

 

「ほおばる」は辞書の wrap around の項には載っていない。だが、原文が描こうとしている事実に立ち返れば、日本語ではこうするほかない。

 

ここを「巻きつけ」と訳すと、日本語の読者には筋の通らない文になってしまう。なぜ巻きついているのに口の中から光が見えるのか、説明がつかないからである。原文の小さなずれが、訳文では読解の妨げになる。

 

原著者が事実を取り違えている箇所は、訳していると時々出てくる。特に書き手が実物に触れた記憶をもとに書いている場合に起こりやすい。記憶は映像として残るので、その映像を言葉にするときに、仕組みとずれることがある。

 

このとき訳者に選択肢は三つある。

1. 原文のまま訳す。忠実だが、日本語として筋が通らなくなることがある。

2. 事実に合わせて訳す。読者には親切だが、原文を書き換えることになる。

3. 原文のまま訳し、訳注で補う。**正確だが、こうした小さな行き違いすべてに注を立てるわけにもいかない。

 

今回は2を選んだ。事実と原文のずれが小さく、しかも原文の後半がすでに事実の側を向いているからである。著者の言いたいことは「ほおばって光る」であって、そこは何も変えていない。

 

原文をよく読み、不審な点があれば、事実を確かめる。

 

これも翻訳の基本だ。

 

英語のbegin, startを常に訳すか

翻訳中に、こういう一文があった。

Under the guidance of Chaptal, the state began adopting a more proactive role in the knowledge economy.

私は最初、「国家は……より主体的な役割を担いはじめた」と訳した。began を「〜しはじめた」で受けたわけである。だが訳文を読み返すと、その部分だけが妙に力んで見える。

英語の begin, start は開始を語っていないことがある

英語の begin to / start to は、日本語の「〜しはじめる」よりはるかに使用頻度が高い。そして多くの場合、開始の時点を強調していない。

He began to feel uneasy. 彼は不安になった。 Prices started rising. 物価が上がった。

これらを「不安を感じはじめた」「上がりはじめた」と訳すと、日本語では開始の瞬間に焦点が当たる。いつから不安になったのか、どの時点から上昇に転じたのか、という問いが立ち上がってしまう。英語の原文はそんなことを言っていない。ただ、以前はそうでなかった状態から、そうである状態へ移ったと述べているだけである。

つまり英語の begin は、しばしば相の標識として働いている。動作の開始という出来事を指すのではなく、動詞が表す事態に変化の向きを与えるための、文法的な補助にすぎない。

なぜ日本語では重くなるか

日本語の「はじめる」は、補助動詞として使われるときも、本動詞としての自立性をかなり残している。「歩きはじめる」と言えば、歩き出した瞬間が像として浮かぶ。複合動詞の後項でありながら、それ自体が一つの出来事を立ち上げてしまう。

英語の began にこの働きはない。began adopting と言っても、adopt しはじめた瞬間の画は生まれない。ここに非対称がある。同じ「開始」を表す語でありながら、日本語のほうが焦点を作る力が強い。

だから律儀に拾うと、原文にない焦点が訳文に生まれる。ひとつひとつの動作に読者の注意が向き、文の流れが細かく刻まれてしまう。落としてよい場合が多いのは、このためである。

落とせない場合もある

とはいえ、常に落としてよいわけではない。冒頭の一文について、私は一度こう考えた。

この段落の主題は、国家の姿勢の転換である。前段までは革命期の諮問局の話で、ここからシャプタルによる体制整備に移る。とすれば began は単なる相の標識ではなく、転換点がシャプタルの就任にあったことを示す時期の区切りとして働いているのではないか。

判断の分かれ目は、比較の対象が何かにある。more proactive の more が革命期との比較なら、すでに国家は積極的だったのだから began は弱い。イングランドとの比較、あるいは従来の国家一般との比較なら、ここが始まりになるので began は効いている。

この箇所は、段落冒頭が「こうした変化があってのことだ」と前段を受けており、断絶ではなく積み上げの話である。だから前者と読み、began は落としてよいと判断した。

一般化すれば、その段落が扱っているのが転換そのものかどうかが基準になる。転換が主題なら、開始の含意は落とせない。既に進行している事態の程度が変わっただけなら、落としてよい。

第三の選択肢

ここで、日本語には便利な形がある。「〜するようになった」である。

開始を表す日本語の形は、二択ではない。

  • 〜した — 事実の記述のみ。時間的な含意なし。
  • 〜しはじめた — 動作の開始点に焦点。その瞬間が像として立つ。
  • 〜するようになった — 状態の移行。以前と違う状態に入ったことを述べるが、いつからかは問わない。

三つめが、英語の begin to の多くの用法にちょうど対応する。開始の時点を明示せずに、以前とは違う状態に入ったことだけを伝えられるからである。

国家は知識経済において、より主体的な役割を担うようになった。

「担った」より変化の含意があり、「担いはじめた」より軽い。原文の began が持っていた機能を、日本語として無理のない形で引き受けている。

この形が使えることを忘れると、「拾うか落とすか」の二択に見えてしまう。実際には中間がある。

同種の問題

開始の相に限らず、英語が明示し日本語が文脈に預ける要素は多い。

come to / grow to — come to believe、grow to like。これも「〜するようになる」で受かることが多い。「信じるに至った」は重い。

increasingly — 「ますます」と訳すと強調が出すぎる。「次第に」か、あるいは訳出せず動詞を「〜するようになった」で受けるほうが自然な場合がある。

would — 過去の習慣を表す would は、日本語では「〜したものだ」が定訳だが、これも重い。動詞の反復や「よく〜した」で足りることが多い。

used to — 同様。「かつては〜していた」と毎回書くと、過去への距離が強調されすぎる。

いずれも、英語が文法として義務的に、あるいは慣用として高頻度に標示する要素である。日本語には対応する形がないか、あっても頻度と重さが違う。一対一の対応表を作ると、必ず訳文が重くなる。

頻度の差を考える

結局のところ、これは語義の問題ではなく頻度の問題だと思う。

begin to にも「〜しはじめる」にも、開始という意味はある。辞書的には対応している。違うのは、その語が原文の中でどれだけ目立つかである。英語で began は目立たない。日本語で「〜しはじめた」は目立つ。同じ意味の語を置いても、訳文における重みが変わってしまう。

訳語を選ぶとき、意味が合っているかだけでなく、その言語の中でどれくらいありふれた語かを考える必要がある。ありふれた語をありふれない語で訳せば、原文になかった強調が生まれる。逆もまた同じである。

 

翻訳中に、こういう一文に出会った。

Chaptal established Chambers of Commerce in two dozen cities and more than 150 Chambres consultatives de Manufactures in smaller towns.

最初、私は「24の都市に」と訳した。two dozen = 2 × 12 = 24 である。算術としては正しい。だが、これは誤訳に近い。

dozen は 12 か

英語の dozen には二つの顔がある。卵を数えるときの a dozen は正確に12である。だが「彼には a dozen の理由があった」と言うとき、話者は理由を数えていない。十数個ほど、という程度の意味しかない。

two dozen も同じで、24を指すこともあれば、20をいくらか超えるあたり、という曖昧な量を指すこともある。どちらであるかは文脈が決める。

問題は、日本語に訳した瞬間、この曖昧さが消えることである。「24の都市」と書けば、それは24であって23でも25でもない。原文になかった精度が、訳文に生まれてしまう。

丸めの基数が違う

ここには、単なる語義の問題を超えた事情がある。英語と日本語では、数を丸めるときの基数が違う。

英語は12を単位に丸める習慣を持つ。a dozen、two dozen、half a dozen。さらに score(20)という単位もある。リンカーンの演説が "Four score and seven years ago" で始まるように、これは87を87と言わずに済ませる言い方である。

日本語にこの習慣はない。日本語が丸めるのは10を単位としてである。十数、数十、二十余り、二、三十。12という数は、日本語にとって何の区切りでもない。

だから two dozen を「24」と訳すと、英語では丸めた数だったものが、日本語では丸めていない数になる。**丸めの結果である24という数字が、日本語では丸めの対象になりうる半端な数として着地してしまう。**原文の話者は「だいたいこれくらい」と言ったつもりなのに、訳文の読者は「きっちり24なのだな」と受け取る。

逆向きの例を考えるとわかりやすい。「二十余りの都市」を英語に訳すとき、twenty-odd とすれば対応するが、これを two dozen と訳し戻しても元には戻らない。丸めの基数が違うものは、往復しない。

二つの手がかり

では、目の前の two dozen が正確な24なのか概数なのか、どう判断するか。冒頭の文には手がかりが二つあった。

一つは、同じ文の中にある。後半が more than 150 と、明示的な概数表現になっている。一文のなかで片方だけを厳密な数と読むのは不自然で、二つ並んだ概数と見るほうが筋が通る。著者は「二十ほどの都市と、150を超える町に」と言っているのであって、精密な統計を提示しているのではない。

もう一つは、文の外にある。**この箇所が扱っているのは、ナポレオン期の内務大臣シャプタルが設置した商業会議所である。史料によって数が異なり、設置時期によっても変動する。一義的な数字が存在しない。著者が dozen という丸い言い方を選んだのは、おそらくそのためである。

内部証拠と外部証拠が同じ方向を指したので、概数と判断した。

20余りの都市に商業会議所を設立した

精度を合わせる

ここから引き出せる原則は、数字を合わせるのではなく精度を合わせるということだ。

翻訳の正確さは、原文の数値を訳文に移すことではない。原文がどれだけの精度で語っているかを見極め、同じ精度の日本語を選ぶことである。24と書けば精度が上がり、「数十」と書けば精度が下がる。どちらも原文からのずれであって、根拠なく精度を上げるほうは、とりわけ危うい。読者はそれを著者の裏づけのある数字として受け取るからだ。

裏を返せば、根拠があるなら話は別だということでもある。その点は最後に述べる。

同種の落とし穴

概数を装った数詞は、英語に少なくない。

score — 20。聖書や演説の文体に残る。「20」と訳すと現代的になりすぎるので、文体ごと考える必要がある。

a couple of — 字義は2だが、実際には2か3、ときにそれ以上。「2、3の」が無難で、「2つの」と訳すと外すことがある。

a handful of — ひとつかみ。数値ではなく少なさの印象を述べている。「一握りの」は日本語にも定着しているが、「少数の」で足りる場合も多い。

myriad — 語源は1万だが、現代英語では「無数の」の意しかない。1万と訳したら誤訳である。

hundreds of / thousands of — 複数形は「数百」「数千」。「何百もの」も可だが、桁の幅が出るので文脈による。

いずれも共通するのは、数の形をしているが数を述べていないという点である。数字が出てきたら計算する前に、これは数えられた結果なのか、それとも量の感触を伝える言い方なのかを、まず問う必要がある。

正しい数がわかったら

最後に一点。仮に調査の結果、シャプタルが設置した商業会議所が正確に22だったと判明したとしたら、どうするか。

原文に忠実であろうとすれば、「20余りの都市」と訳すことになる。著者は two dozen と書いたのであって、22とは書いていない。原文の丸め方には著者の判断が現れているのだから、訳者が勝手に精度を上げるべきではない——そういう考え方はありうる。

だが私はそう考えない。正しい数がわかったのであれば、その数を訳文に書くのも訳者の判断である。読者はそのほうがありがたいからだ。

著者が two dozen と丸めたのは、多くの場合、正確な数を必要としなかったか、手元になかったからである。そこに確かな数字があるとわかったとき、それを伏せて曖昧なまま渡すことに、読者にとっての利益はない。原文の解像度を保つことが目的化すると、訳文は原文の複製にはなるが、読者に届くものではなくなる。

もちろん、数字を動かした以上、その根拠は示さなければならない。本文を「22の都市」とし、訳注で出典を挙げる。あるいは本文は原文どおりに置き、注で正確な数を補う。どちらの形を取るかは、書物の性格と読者層による。重要なのは、訳者が調べて確かめた事実を、読者に渡す方法を考えることのほうだという点である。

原文に書かれていないことは書かない、という原則は正しい。だが、原文が曖昧にしか書けなかったことを、訳者が明らかにできる場合がある。そのときに手を止める理由はない。訳者の仕事は原文を運ぶことだが、運ぶ先には読者がいる。

Carl Benedikt Frey, How Progress Ends(Princeton University Press, 2025) 第5章の冒頭に、マルクス『資本論』第1巻初版序文からの引用が置かれている。

The industrially more developed country presents to the less developed country a picture of the latter's future.

短い。しかし訳文が決まるまでに、いちばん手間取った。

 

原因は英訳が後者を "the latter" で受けていることにある。英語では自然な処理だが、日本語に持ち込むと硬くなる。「後者自身の未来」——書けはするが、読者は一拍止まる。

 

そこで代名詞を開いてみた。

産業のより発展した国は、遅れた国に対して、その国自身の未来の姿を示している

今度は「その国」が発展した国と遅れた国のどちらを指すのか決まらない。代名詞を避けようとして、別の照応の問題を作ってしまったわけである。

 

次に、指示を一意にするため語を補った。

産業のより発展した国は、遅れた国に、その遅れた国の未来の姿を示している

指示は決まった。だが読点が三つ入り、息が切れる。読点で構造を支えようとすると、たいてい文は重くなる。

結局、落ち着いたのはこうだった。

産業が発展した国は、遅れた国に遅れた国の未来を示している

「遅れた国」が二度出る。英語なら避ける反復である。だが日本語では、代名詞で受けるより名詞をそのまま繰り返すほうが自然に読める場合がある。ここは指示の一意性を優先すべき箇所であり、反復によって助詞「に」が連続することで、かえって一息で読める。

 

比較級の「より」も落とした。原文の比較級は、発展した国と遅れた国という二つの類型があるという話ではなく、同じ道の先を行く国と後を行く国だという段階論を含んでいる。マルクスの主張が成立するのは後者の読みにおいてのみで、その意味では「より」に機能はある。それでも落としたのは、この含意が直後の文脈で十分に伝わると判断したからである。日本語に持ち込むと冗長になる要素は、文脈が支えてくれるなら文脈に預ける。

 

正確な訳とは、原文の要素をすべて日本語に移すことではない。どの要素を文が担い、どの要素を文脈に預けるかを判断することである。

 

なお、ドイツ語原文の該当箇所は "das Bild der eignen Zukunft"、すなわち「自分自身の未来の姿」である。英訳の "the latter's" はこの eignen に対応する。所有の限定がもともと原文にあり、英訳者はそれを代名詞で処理したわけで、日本語がそこに付き合う義理はない。

 

また、この一文には既訳が複数存在する。出版翻訳であれば既訳を引いて出典を注記するのが通例であり、ここでの検討は本来なら不要になる。

 

additional は「さらなる」「追加の」と訳される。難しい語ではない。だが日本語に移したとき、その「さらに」が思わぬ相手を捕まえてしまうことがある。

次の一文を訳していて、その事故が起きた。

Slaby and his assistant, Georg von Arco, embarked on a series of additional and auspicious experiments during the summer of 1897.

△ スラビーとアルコは1897年の夏、さらに有望な実験に着手した。

 

これでは「さらに有望な」と読める。以前の実験よりも有望だった、という比較の意味になってしまう。だが原文の additional は experiments にかかっており、有望さの度合いを言ってはいない。実験がさらにいくつか行われた、そしてそれらは有望だった——並列する二つの形容詞である。

 

○ スラビーとアルコは1897年の夏、さらにいくつもの有望な実験に着手した。

 

「いくつもの」を挟んだだけで解決する。「さらに」は「いくつもの」を修飾し、「有望な」は「実験」にかかる。三つの修飾語がそれぞれの持ち場に収まる。

程度副詞は直後の形容詞に吸い寄せられる

日本語の「さらに」「もっと」「より」「いっそう」は、直後に形容詞が来ると反射的にそれを修飾する。あいだに何も挟まないかぎり、この吸着は避けられない。

 

We conducted more extensive interviews.
△ さらに広範な聞き取りを行った。
○ 聞き取りの範囲をさらに広げた。/さらに数多くの、広範な聞き取りを行った。

 

上の△は「以前より広範な」とも「広範な聞き取りを追加で」とも読める。原文が more extensive(比較級)なら前者、more + extensive(追加の広範な)なら後者。英語の側も曖昧なことがあるので、文脈で決めるほかない。決めたら、日本語では曖昧さを残さないように書く。

 

She raised several further important objections.
△ 彼女はさらに重要な異議を唱えた。
○ 彼女は重要な異議をさらにいくつも唱えた。

 

「さらに重要な」では、前の異議より重要だったことになる。数の追加を言いたいなら、数量表現を先に立てる。

逃げ道は三つ

1、数量語を挟む
さらにいくつもの/さらに数件の/さらに三つの

2、副詞を述語側へ送る
「有望な実験をさらに重ねた」「範囲をさらに広げた」

3、文を割る
「実験はさらに続いた。いずれも有望なものだった」

三番目は情報量が多いときに効く。修飾語を一文に詰め込まず、述語を二つ立てて分担させる。

additional と more の見分け

  • additional — 数の追加。比較の含みはない
  • more + 形容詞 — 比較級。程度が上
  • more + 名詞 — 数量の増加

つまり additional を「さらに〜な」と訳した時点で、比較級と混同される道に入っている。「さらなる」「追加の」「もう一つの」と、名詞にかかる形で処理するのが安全だ。

 

The committee requested additional funding.
○ 委員会は追加の予算を求めた。(×さらに多い予算を)

 

They found additional evidence.
○ さらに証拠が見つかった。(×さらに確かな証拠が)

 

二つ目は「さらに」を文頭に近い位置へ送り、名詞との距離を取っている。位置を変えるだけで、かかり先は変わる。

 

instructive は「有益な」「教訓的な」と訳されることが多い。だが、この語が副詞をともなって現れたとき、辞書の訳語をそのまま当てはめると日本語が動かなくなる。

次の一文がそうだった。

The case of steel is instructive more broadly.

△ 鉄鋼の事例は、より広い含意を持つ。

 

「含意を持つ」は抽象名詞に動詞をつないだだけの、身体のない日本語である。しかも「より広い」が何と比べて広いのかが宙に浮いている。読者はここで一度立ち止まってしまう。

原文が言っているのは単純なことだ。鉄鋼の例から学べることは、鉄鋼業だけの話ではない。他の産業にも当てはまる。それだけである。

 

○ 鉄鋼の事例が示すものは、鉄鋼業にとどまらない。

 

「とどまらない」が more broadly を引き受け、同時に「何より広いのか」という疑問も消える。比較の相手(鉄鋼業)を文中に書いてしまえば、比較級は宙に浮かない。

比較級は相手を書く

英語の比較級は、比較の相手を省略できる。文脈から明らかだからだ。ところが日本語で「より広い」「より深い」とだけ書くと、相手が見えないまま形容詞だけが残ってしまう。

Her later work is more ambitious.
△ 彼女の後年の仕事は、より野心的だ。
○ 彼女の後年の仕事は、初期のものより野心的だ。

 

The deeper consequence of the ruling was the legalization of cartels.
△ この判決のより深い帰結は、カルテルの合法化だった。
○ この判決の影響は、さらに深いところに及んだ。カルテルが合法化されたのである。

 

二つ目は、比較の相手(直前に述べた影響)を書き込む代わりに、「さらに深いところに及んだ」と述語に開いた例。名詞句のまま抱え込まず、文を割ってしまうほうが楽になることは多い。

「〜にとどまらない」という受け皿

more broadly、in a wider sense、beyond this case——こうした「範囲を広げる」表現は、日本語では否定形で受けると収まりがよい。

 

This problem is not confined to the publishing industry.
○ この問題は出版業界だけのものではない。

 

The lesson applies well beyond wartime.
○ この教訓は戦時にかぎった話ではない。

 

Similar patterns can be observed in other sectors as well.
△ 同様のパターンは他の部門でも観察できる。
○ 同じことは他の分野でも起きている。

 

肯定形で「広く当てはまる」と書くより、「〜だけの話ではない」と否定で示すほうが、日本語では輪郭がはっきりする。何が除外されないのかを名指すからだ。

instructive をどう訳すか

そもそも instructive に固定の訳語を当てる必要はない。

 

Her failure is instructive.
○ 彼女の失敗から学べることは多い。

 

The comparison is instructive.
○ 比べてみると、よくわかる。

 

It is instructive to recall how the crisis began.
○ この危機がどう始まったかを思い返してみるといい。

 

「教訓的」「示唆に富む」といった訳語は、どれも一段高いところから見下ろす語感がある。原文はもっと素直に「見ればわかる」「教えてくれる」と言っているだけのことが多い。

 

An open invitation

Jory Fleming is coming to Japan for the first time.

He is the author of How to Be Human: An Autistic Man's Guide to Life, published in Japanese as 『「普通」ってなんなのかな 自閉症の僕が案内するこの世界の歩き方』 (Bungeishunju, 2023), which I translated. On Monday 12 October he will speak at Rikkyo University in Tokyo, and I will be on stage with him.

Anyone may attend, from anywhere in the world. It is free.

The details

Monday 12 October 2026, 17:30–19:30 Japan Standard Time
Rikkyo University, Ikebukuro Campus — McKim Hall (Bldg. No. 15), Room M201
Hybrid: in person or online, with consecutive Japanese–English interpretation
Free admission, advance registration required

Register here:
https://docs.google.com/forms/d/e/1FAIpQLScVm6-Nlo7kU_OXmMgc89SiZn8LavhA-_e1BOAplYMw7kceIA/viewform

 

If you don't read Japanese

The registration form is in Japanese only. Here is what each field says, in order:

  1. お名前 — Name (required). Roman letters are fine.
  2. 所属 — Affiliation (optional). Leave blank, or write "Guest."
  3. メールアドレス — Email address (required). The Zoom details will be sent here.
  4. 参加形態 — How you will attend (required). Two buttons: 対面 = in person, オンライン = online. Choose the second one if you are joining from outside Japan. Either way, the Zoom link comes by email.
  5. ご要望・ご意見など — Requests or comments (optional).

Then press the blue button marked 送信 — Submit.

Check the time where you are. 17:30 JST on Monday 12 October is 4:30 a.m. the same day on the US East Coast, 1:30 a.m. on the West Coast, and 9:30 a.m. on Sunday 11 October in London. We are recording the session and hope to make it available afterwards, so nobody need lose a night's sleep unless they want to.

If the form gives you trouble, write to me and I will register you myself.

Why I am asking

What is still asked of autistic people in Japan is, too often, that they become someone else.

Jory's book says something different, and in Japanese it has already reached people who needed to hear it. A mother sent me a photograph of her small son holding it, in his pyjamas, and I have not been able to forget it.

But a book is a quiet thing. On the 12th, Jory will be in a room, speaking, with a hundred people in front of him and the rest watching from wherever they are — and some of them will be hearing an autistic person explain his own mind for the first time in their lives.

That is how these things shift. Not all at once, and not only here.

So: come if you can, and send this to anyone who might want it. I think we can move something.

Hayato Uesugi (Yasushi Kaneko)
Translator
Part-time Lecturer, Rikkyo University