大正8年5月 御國座 源之助の仮名屋小梅 | 栢莚の徒然なるままに

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今回は唐突ですがつい最近手に入れた珍しい筋書を紹介したいと思います。
 
大正8年5月 御國座

 
演目:
 
主な配役一覧

 
本編に入る前に御國座の概要と今回出演している主な役者について触れたいと思います。
御國座はもとは平仮名で「みくに座」と名乗っていて場所は繁華街の浅草六区、つくばエクスプレス浅草駅付近に位置していました。
 
この辺り
 
浅草六区については多くの方が書いているので割愛しますが江戸時代から東京屈指の歓楽街として栄え、明治時代から数多くの劇場が乱立していましたが、松竹は歌舞伎座や新富座、本郷座の経営で余裕が無かったのか暫くは手を出す事はしていませんでした。
そんな松竹の気が変わったのは大正6年、常盤興行部によって作られた公園劇場に又五郎、権之助、九蔵らを引き抜かれた事が契機となりました。
松竹と進出戦略といえばまず既存の劇場を買収して進出してから次々と劇場を買収するかあるいは新たな自前の劇場を建てて拠点とするのが定石ですが浅草では日活が所有していた国技館を劇場を買収して大胆な改装工事を経て事実上の新築劇場として建てた吾妻座を浅草における橋頭堡としました。
そして大正7年正月から澤村訥子、吾妻市之丞、中村福圓といった面子で杮落し公演を行いました。
 
こうして浅草進出を果たした松竹が休む事なく次に打った手がみくに座の買収でした。買収後に松竹は名前を御國座と漢字表記に改めた他、場内を改装して整えた上で澤村傳次郎、二代目市川九團次、六代目市川團之助の面々でこちらも大正7年1月から公演を始めました。
 
劇場内の概略図

 
しかし、近場に幾つ物の劇場があり鎬を削る激戦区浅草では人気者の傳次郎を擁していたとはいえ苦戦を余儀なくされ、松竹はテコ入れを余儀なくされました。
そこで白羽の矢が立ったのが田圃の太夫の二つ名を持つ澤村源之助でした。
 
源之助が御國座に移る前に最後に出演した歌舞伎座の筋書 

 

当時歌舞伎座に出演して世話物演目では歌右衛門をも上回る高評価を得ていた源之助でしたが大所帯の歌舞伎座ではどうしても彼を持て余し気味な状態でした。
そんな源之助を座頭に、当時市村座で活動していたものの、役不足状態にあった四代目尾上紋三郎を引き抜いて二枚目役に据えました。
 
紋三郎についてはこちらをご覧ください 

 

こうして主役を固めた後、上述の3人の内、團之助のみを残して他の劇場で活躍していた二代目市川團九郎、四代目市川紅若、中村竹三郎を集めて一座を組み大正7年11月から新ラインナップでの公演を行い、久々に源之助が浅草に帰ってきたというサプライズ性も相俟って大入を記録しました。
 
團九郎についてはこちらをご覧ください 

 

團之助についてはこちらをご覧ください 

 

因みに残る四代目市川紅若と中村竹三郎については前にも少し紹介した事がありますがここで改めて紹介すると市川紅若は元々は上方の名優である中村宗十郎の弟子に当たり明治17年に中村千代松の名で中座で初舞台を踏みました。しかし、程なくして師が明治21年に亡くなると彼は中村源之助を名乗って上京して東京を拠点に定めて役者生活を始めました。そんな根無し草状態の彼を拾ったのがかの七代目市川團蔵で明治25年に彼に弟子入りして市川紅若を襲名しました。この頃の彼は團蔵一門が女形不足だった事もあり、立女形として迎えられ師の全国各地のドサ廻りにも従って事で彼の境遇からすれば考えられないほど数々の大役を好き放題演じられここで芸の基礎を固めました。そして師匠が大阪に行った明治35年から師の元を離れて独立し深川座、開盛座といった両国界隈の小芝居を根城に活動しつつ、師匠團蔵が明治41年に歌舞伎座に戻ってきたタイミングでちゃっかり師匠に便乗して歌舞伎座に初出演と果たしており、そこから大歌舞伎の舞台にも上がる様になりました。

 

その時の筋書がこちら 

 

彼はこの後、師匠の実子である市川九蔵と行動を共にしつつ花車役者として大正4年まで歌舞伎座に出演した後、四谷にあった大国座をホームに小芝居で再び活動を続けました。そして関東大震災で小芝居の劇場が軒並み焼失したのを機に再び大歌舞伎へと戻り当時花車役者が不足していた吉右衛門一座に招聘される形で一座に加わりました。

吉右衛門一座では花車役に加えて河内山では北村大膳を演じたりと立敵役なども務めるなど幅広く活躍していましたが昭和9年を境に今度はその技芸を買われて菊五郎一座に移籍する形になり菊吉の一座を渡り歩くという澤村源之助に匹敵する扱いを受けるなど晩年まで腕が衰える事なく活動し、源之助や菊五郎一座の花車役者だった菊三郎を見送り昭和13年に68歳で亡くなりました。

 
対して竹三郎は五代目中村歌右衛門の弟子に当たり、早くから師匠の元を離れて小芝居に入った人物で芸風としては師匠の歌右衛門が鉛毒の影響で演じれなくなった熊谷陣屋の熊谷直実を始めとする立役を継承し、他にも佐々木高綱や法界坊等も得意として幅広い芸域を持っていました。
この内、熊谷陣屋については最晩年に二代目尾上松緑に型を教えた事で歌右衛門の死後に継承が途絶えていた芝翫型が今日まで継承される事となり現在の歌舞伎にまで影響を及ぼした人物でもあります。
 
前置きが長くなりましたがこんな若手から大歌舞伎の幹部役者、大ベテランなど個性豊かな面々で11月から変わらないまま半年が経過したのがこの公演となります。
 
芦屋道満大内鑑

 
一番目の芦屋道満大内鑑は初代竹田出雲が享保19年に書き下ろした丸本物の演目となります。
歌舞伎では専ら四段目の阿部保名の妻である葛の葉に化けていた狐が我が子との別れを悲しむ葛の葉子別れのみが上演されるのが常であり今回も葛の葉子別れのみの見取上演となっています。
今回は安倍保名と石川悪右衛門を竹三郎、葛の葉と狐葛の葉、狐勘平を紅若、童子を漣がそれぞれ務めています。
竹三郎と紅若という激渋の面子での葛の葉子別れですが劇評もこれについては
 
紅若の出し物で、子別れから道行まで出し、姫と狐と狐勘平との三役を、例の落付いた芸風で見せ竹三郎の保名と悪右衛門、若猿、團九郎、市女蔵の三人奴も割合面白く見せた
 
と紅若が意外ときっちり活躍していた事や竹三郎の保名が良かったと短いながらも評価されています。
團蔵の出し物のレパートリーには無かったこの演目すらも何処かで覚えたのかやってのける紅若の芸幅の豊かさは師匠亡き後の小芝居での修練の程が窺える物で後年大歌舞伎に招かれたのも裏付けられます。
 
仮名屋小梅
 
そしてタイトルにも書いた通り今公演の目玉と言っても差支えない演目が中幕の仮名屋小梅となります。
この演目は伊原青々園が実在した殺人犯である花井お梅をモデルに都新聞に連載した小説を左團次との活動で知られる真山青果が脚色した新作演目です。
因みにこの演目は戦後の資料などの類には大正8年11月に新富座で初演と書かれていますがご覧の通り間違いで正しくは大正8年3月にこの御國座で上演されたのが初演となります。
知らない方も多いので花井お梅の概要について紹介すると彼女は若くして柳橋の芸妓になり「秀吉」の源氏名で売れっ子として活躍する勝気な女性でした。
しかし貢いでいた歌舞伎役者へ渡した品物が秘かに芸妓喜代次に渡っていたと知りヒステリーな性格もあって大喧嘩となり、わかれた後に事件の被害者となる八杉峰三郎を雇った後に愛人だった銀行頭取の伝手で酔月楼という茶屋の主人に収まりました。しかし、明治20年6月に些細な事が原因で八杉峰三郎を殺害して逮捕された事で美女の人殺し犯として一躍その名が世間に知られる事となりました。
 
本物の花井お梅(出典:むかしもん文庫所蔵)
 
お梅と深い仲にあった頃の源之助
 
 
結果的に無期懲役が下されるも事件から16年後の明治36年に釈放され、その知名度を活かして旅回りの一座に加わり殺人事件を自分自身で演じるなどして生計を立てた後に再び芸妓に戻り大正5年に数奇な人生を終えました。
この話は当然ながら世間の高い関心を集め今回の仮名屋小梅や後に明治一代女として脚色されて舞台演目として上演される事となりました。
今回は仮名屋小梅を源之助、箱屋兼吉を若猿、山村善平を團之助、宇治一重を紅若、浜本真砂雄を竹三郎がそれぞれ務めていますが何と言っても大きな注目ポイントは仮名屋小梅を源之助が演じた点です。
何を隠そうお梅が貢いだ歌舞伎役者というのが源之助であり、殺した八杉峰三郎は元は源之助の男衆でお梅とのトラブルで解雇されてお梅に雇われた経緯があリました。
事件そのものとは無関係ながらも事件の遠因となっただけに源之助自身もかつてインタビューされた時にも頑なにノーコメントを貫いた程ナイーブなネタだけに幾ら創作と銘打っているとは言え亡くなってまだ3年も経たない内に因縁ある小梅を演じる事について衆目の関心を一心に集める事となりました。
上記の通りこの演目は3月に既に御國座で上演されましたがその時は主に作品の前半部分である銀之助(源之助)との騒動までを上演したのに対して今回は時間の都合上出来なかった物語の後半部分、具体的には愛人だった銀行頭取の紹介で梅月(酔月楼)の主人となり、酔った勢いで誤って兼吉を殺してしまう場面までを上演しました。
言わずもがな本物のお梅に何度も会っている源之助だけに彼女のヒステリックな性格から細かな癖まで熟知していて演じた事もあり
 
自然にそして持味を発揮しながら見せている
 
大詰の殺し酔態の中で脅すつもりで兼吉を斬って心付いてべったりと腰を卸して了ふ幕切が殊に良かった
 
と兼吉への嫉妬を覚えてビールを飲みながら酔い潰れる様を清元で表現したかと思えばかつて本郷座で絶賛されたかしくを彷彿させる酔態からの殺人を犯しハッと我に返って事の重大さに慌てふためく所まで彼にしか出来ない演技だと絶賛されました。
 
大正8年3月に初演した時の源之助の小梅
 
余談ですが前回と今回の好演もあって再度大正10年3月に再び小梅を演じましたがやはり源之助にとっては苦々しい思い出であったらしくそれきり封印して二度と演じる事はありませんでした。
そして劇評では若猿と竹三郎についても触れ
 
若猿の兼吉も源之助を相手にしてその大役を美事(見事)にやって退けた
 
竹三郎の浜本は可笑しみにして居るのがこの人の柄にはまって宜い
 
と源之助の出来栄えには及ばないとしながらも前回と同じ役を務めた2人がそれなりに充実した出来だったと評価しています。
この様に突出した源之助の出来栄えや脇を支えるベテランや若手の活躍もあり、かなり盛り上がったのは言うまでもなく今回の目玉演目としては大成功となりました。
 
新皿屋舗月雨暈

 
二番目の新皿屋舗月雨暈は国立劇場の観劇の記事でも紹介した河竹黙阿弥の書いた世話物の演目です。
 
国立劇場の記事

 

今回は魚屋宗五郎を紋三郎、磯部主計之助を紅若、お蔦と魚屋太兵衛を團之助、おはまを成駒がそれぞれ務めています。

ここでいきなり出て来た成駒という役者について軽く紹介すると名跡からしてお察しの通り成駒屋の役者ですが歌右衛門系統ではなく鴈治郎一門の役者です。尤も鴈治郎の直弟子ではなく長男の長三郎の弟子である上に早くに師の元を離れて大阪や名古屋の中芝居をメインに活動していて明治44年2月に堂島座に出演した際に成駒を襲名したそうです。

その後経緯は不明ですが市村座に加入し若女形候補の1人して大正6年4月に名題にまで昇進しました。そこで踏ん張れば大歌舞伎に残る道筋もあったのですがどうにも大芝居の水が合わなかったのか大正6年末には訥子、福圓、市之丞で杮落しを行った吾妻座に出演して小芝居に入って活躍しその流れで御國座に流れ着きました。

今回は小芝居で六代目の得意役を数多く演じて来た紋三郎が宗五郎を演じている事もあり、同じ市村座にいた者同士の誼もあって彼にとっては破格と言えるおはま役に抜擢された模様です。

しかし、劇評では残念ながらおはまについては全く言及がなく専ら紋三郎について触れられていて

 
紋三郎の宗五郎が「私のいふ事は無理か無理でねえか」と膝を叩いて「聞いてくんねえ」といふ呼吸が巧く出来た
 
紋三郎の宗五郎が磯部の屋敷に暴れて行くまでが矢張り大受けで菊五郎畑の技巧をちょいちょいと見せてゐる
 
と流石は六代目の得意役を数多く手掛けている彼だけに何処か台詞廻しや動きに六代目を彷彿させる演技が見え隠れしたらしく高く評価されています。
この紋三郎は市村座にいた時にも触れましたが小芝居でも大歌舞伎でも渋い脇役として鳴らした実父幸蔵とは正反対に芸はきちんと大歌舞伎で修行したものの、あくまで小芝居で主役を張るのを主としていた事もありあまり知られてはいませんが実は舞踊でも藤間流に師事して紋三郎派を立ち上げる程の実力者でもあり、同年代の初代中村又五郎、澤村傳次郎と並んで若手の有望株として知られていました。
残念ながら大正15年に幼子を残して病死した上にその子供が役者ではなく舞踊の道に進んでしまったが為に同じく急逝しながらも息子が人間国宝にまで上り詰めた事で名が残った又五郎、長生きもあって舅の名跡である訥子を継いだ傳次郎に比べて影が薄い彼ですが実力で言えば残りの2人にも引けを取らない物があった事を裏付けてくれます。
そして劇評では彼以外に紅若と團之助についても
 
紅若の主計之助はおっとりした殿様振りで團之助のお蔦の技巧沢山とよい対照をしてゐた。
 
と真反対ながらも確かな腕で主役を支えている2人を評価しています。
遉に話題性では仮名屋小梅には敵わないものの、凡百の小芝居とは異なるきちんとした世話物狂言として充実した内容にはなっていたらしく、劇評などの玄人受けはこちらの方も負けない物がありました。
 
以上の通り、今回の5月公演は仮名屋小梅の受けが相当良かったらしく新聞広告にも満員御礼の広告が載る位に入りは良かったそうです。
どうしても歌舞伎の事を調べようとして資料類を読んでも御國座の様な劇場は殆ど載っていないか載っていても僅かな供述があるかないか位が関の山であり、それだけに今もなお仮名屋小梅が大正8年11月に初演されたというデタラメが平気で罷り通っていまっているのが事実です。
私の個人的な主観ですが、こういった小芝居の資料にこそ戦後から現代かけて歌舞伎から失われてしまったエッセンスがあるのではないかと思っており、私が持っている僅かな資料にはなりますが今後も折に触れて小芝居の事は紹介していく予定であり、この御國座についても今回の公演以外の筋書も合わせて購入したのでまた直ぐに次の公演を紹介できると思いますので楽しみにお待ちください。