大正7年7月 帝国劇場 女優劇その2 | 栢莚の徒然なるままに

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今回は久しぶりに帝国劇場の女優劇公演を紹介したいと思います。

 

大正7年7月 帝国劇場

 

演目:

 

一、女忠臣蔵

二、結婚の前

三、滑稽俄安宅新関

 

帝国劇場名物の女優公演も開始から7年が経過すると当初の物珍しさもすっかり消えて帝劇を支える立派な戦力として成長しました。

そして専属女優陣に加えて前回の6月公演の筋書でも触れましたが今回は市村座から彦三郎と三津五郎、歌舞伎座からは片岡市蔵と市村亀蔵、そして専属俳優は松助と菊四郎と若手、中堅、ベテランが入り混じって補導として出演しています。

今回は現代物の新作1つに右田虎彦が筆を執り忠臣蔵を脚色した女忠臣蔵と滑稽俄安宅新関と女優劇ならでは演目となっています。

 

前回紹介した女優劇公演の筋書


 

女忠臣蔵

 
一番目の女忠臣蔵は上でも書いた通り、右田虎彦が忠臣蔵の七段目以降の出来事を女性キャラを中心に再構成した新作時代物です。
原作の忠臣蔵でも七段目のお軽や九段目のお石、戸無瀬、戸浪といった女性が活躍しますが、今回は一応実録テイストにしたらしくそういったお馴染みの人物はお石を除いて登場せず、そのお石も碁盤太平記の方のお石として登場するのみで山岡角兵衛の妻お波が事実上の主人公となっています。
この山岡角兵衛の妻の話は妻の名前をお縫として落語の演目としては知られており、こちらの場合夫の角兵衛が脳溢血で急死してしまったが故に不甲斐ない夫に代わりに仇討に密偵として活躍するという噺であり歌舞伎にも輸入されて明治3年8月の中村座・市村座の合同公演でかの三代目澤村田之助がお縫(その時はおきく)演じた事もあります。
今回は流石に脚色され夫角兵衛が内蔵助の祇園での遊蕩に憤慨して早まって自害してしまい自身も後を追おうとするも内蔵助に止められ代わりに仇討に参加するというお軽勘平の設定を一部転用したかの様な立ち位置になっています。
今回は山岡波子を初瀬浪子、角兵衛を三津五郎、大石内蔵助を市蔵、お石を河村菊江、赤垣源蔵を彦三郎、下男八助と吉良上野介を菊四郎、堀部弥兵衛を松助がそれぞれ務めています。
劇評ではまず演目そのものについて
 
草双紙と丸本との間に出来た私生児といった狂言
 
と忠臣蔵のエピソードあちこち継ぎ接ぎして作っている事を見事に表現した皮肉を言われています。
そして主役の浪子と角兵衛については
 
妙に他人行儀で夫婦連れとは見えない。罪女房にあり。
 
角兵衛、腹を切って苦がってゐる最中内々で汗を拭いたり、涼味恋しさでもあるまいが膝ッ小僧を出して、勘平がって見たりなかなか茶気茶気として余裕がある。
 
浪子のお波は、一体に無事
 
「(大詰めに武装して出て来る)浪子のお波の振事は物凄い。もう少し続けて見せれば、浪士が手を下すまでもなく、吉良も往生したらうと思はれる。後の蔭腹、では無い蔭乳で、薙刀を杖いて出る工合は傷の方が胸の方にあるらしくなく、今なら急性腸加答兒(カタル)といふ形。
 
と三津五郎は芝居に受けすぎ、浪子は写実に受けすぎと双方が双方で問題があるとかなり手厳しい評価となっています。
 
市蔵の内蔵助、浪子のお波などなど
 
しかし主役が今一つなのとは裏腹にその他の脇役の出来は思った以上に良かったらしく、今回は脇役ながらも大石内蔵助を務めた市蔵は
 
市蔵の大石、貫目は足らねど、一座中の内蔵助役者、先づ通用はすると為やう。然し、角兵衛の切腹を見て驚く如き腹違いがある。
 
市蔵の大石はこの場(三幕目の大石屋敷の場)が一番。
 
と経験不足から来る貫禄と欠点は指摘されているものの、演技そのものは内蔵助に相応しいとかなり評価されています。
この市蔵は四代目片岡市蔵で以前に東京座の若手芝居に出演した事は紹介しました。
 
東京座での若手芝居の筋書
彼は実悪の名人と言われた三代目片岡市蔵の実子で父の元で修行を積む傍らで日露戦争に兵士として召集されちょっとした話題にもなった事があります。その兵役が満了した時に三代目市蔵は嬉しさのあまり自費で歌舞伎座を借りて公演を打って祝ってくれたものの、その年に父は亡くなり彼は僅か26歳で劇界の孤児となりましたが、折しも歌舞伎座の社長が大河内輝剛だった事もあり、彼にその才を認められた事もあって父の死から3年後の明治42年には無事父の名跡である市蔵を襲名出来ましたが、その公演の最中に大河内は急逝してしまいまたもや後ろ盾を失う事になりました。しかし、その頃には父から継いだ実悪の役などで定評を得ていて、歌舞伎座では脇役を務める一方で上記の様に東京座などで大役を演じて芸を磨いた事もありこの大正7年の頃には歌舞伎座には無くて欠かせないバイプレーヤーとしての地位を確立していました。
そんな脂の乗った彼が女優劇の新作とは言え歌舞伎座ではまず演じられない大役の内蔵助を演じられるとあって大車輪に演じた事が今回の評価に繋がったと言えます。
 
また下男八助と吉良上野介を演じた菊四郎も
 
菊四郎の下男八助は、松助の役を急に代わらされたのだとか。(中略)実際における菊四郎のは、演る事大いに結構、詞は大江戸っ子である。
 
菊四郎の吉良も先づ結構。
 
と松助の代役として演じた八助含めて評価されています。
ここで初めて菊四郎の名前を見た人もいるかと思いますので簡単に紹介したいと思います。彼は五代目尾上菊五郎の弟子で昔は尾上(坂東)竹次郎と名乗って活動していました。その後三代目尾上菊四郎を襲名しますが、明治20年代頭には四代目澤村源之助と共に三崎座に出るなど活動の場を小芝居に移してしまいました。音羽屋で小芝居の役者と言えば他に尾上幸蔵やその息子の紋三郎などがいますが、大橋屋親子が小芝居では五代目、或いは六代目菊五郎の模倣芸で主役を張っていたのに対して菊四郎は一貫して脇役で貫き通していました。
こうして聞くとまるで「小芝居の松助」みたいなポジションですが、様々な劇通からも松助とは比較されたらしく三島霜川は彼の芸風について
 
何となしに江戸時代の芬のついた老巧役者である。そして人気も求めず、見得も張らず、舞台に出るのを商売のやうにして、コソコソやっている役者である。(中略)それにしても(小芝居に長年いて)芸がさして荒れもしなければ、小芝居臭くならないのも不思議である。不思議といふよりは鍛込むだ腕だと感心する方が至当かも知れない。」(三島霜川、役者芸風記)
 
しかしその役柄は、殆ど松助と同じと謂って差し支へはないやうだが、松助ほど舞台ぶりに緊張したとこもなければ、鋭く光って見せるやうなところも無い。其處が松助よりも役者を小さくもし安くもしてゐるところであらうが、その代わり、菊四郎は、松助よりも役の領分が広いかも知れぬ。お安くても使道は多いやうである。(中略)勿論松助と菊四郎では、役者の位に大分相違がある。一緒にして論ずべき代物では無いかも知れぬ。松助に比べて調子も低ければ、味も薄いし、また輪郭といふやうなのも何となし小さく出来てはゐるが、しかし、菊四郎とても確かに当代に於ける老巧役者である。」(同)
 
と評価して単なる松助の下位互換ではない独自の芸と松助との違いを述べています。確かに今回に関しても松助は八助は演じれても吉良上野介は演じれるニンではありませんがそこをひょいとことなげもなく演じれるのが菊四郎の強みと言えます。
しかしながら菊四郎は当時63歳と松助(75歳)とは比べ物にならないものの十分に老齢であった事から11月公演の途中で病気で休演しそのまま回復する事なく15日に死去してしまいました。また11月公演の時に細かな事は解説しますが、今回の二役は彼の最晩年に見せた至芸の1つだったと言えます。
この様に主役の浪子や女優陣はどれも押しなべて今一つだったのに対して補導の脇役役者陣の思いの外の熱演もあり何とか舞台として見れたレベルの物にはなった様です。
 
結婚の前

 
二番目の結婚の前は前に新富座の劇評で鴈治郎をボロッカス貶していた松居松葉が書いた現代物の新作です。
彼の現代物の新作は以前にも歌舞伎座で上演した寝台車を紹介した事がありますが今回も帝国劇場の女優向けに書き下ろした歌舞伎色を一切排除した純粋な恋愛物となります。
 
歌舞伎座で寝台車を上演した時の筋書


内容としては韮山家の甥健太郎を自身の娘お里と結婚させようとしますが、健太郎はお里の姉で養女のお粂に恋しています。しかし、お粂は実母お小夜が乞食で金銭を養家に媚びるなど問題を抱えていて、更には総右衛門がお里との結婚を決めた以上不義は出来ないとしてここを押し殺して健太郎との駆け落ちを断るという内容となっています。
 
今回はそれまでとは違い現代物とあってか端役を除いて歌舞伎役者は一切出演させず、男性役の総右衛門、健太郎、慈妙には舞台協会から加藤精一、森英二郎、横川唯治を借りてそれぞれ務めさせています。実はこの3人に加えて林幹竝、宮島啓夫の5人は元々帝国劇場の文芸協会の出身で同会が解散した後に林と宮島は島村抱月、松井須磨子が興した第一次芸術座に参加していました。
しかし、芸術座はこの頃、大正6年に澤田正二郎が新国劇を旗揚げするなど団員の離脱が相次ぎ崩壊寸前の状態でした。そんな中山本専務は将来性が見込めるこの2人を引き抜いて専属契約を結んで今回の公演に出演させた経緯があります。
因みに芸術座はこの年の11月に島村抱月が病死、松井須磨子が翌年自殺した事で解散の憂き目にあっています。
そして舞台協会の3人もまたこの年に専属契約を結んで帝国劇場に移籍しました。
 
この様な楽屋ネタの話は置いとくとして菊四郎など老役が出来る歌舞伎役者がいるにも関わらずきちんと現代劇に現代劇の役者を出演させるなど手抜きをしない姿勢が良かったのか劇評からは
 
松居松葉氏の作で、ピリリとさせた現代劇。芝居の方で少し度胸を据えさへすれば、意味のある脚本も段々出て来る。今後も何卒看物を教育してやって下さい。(中略)老いたる者と若い者との思想の差異や、浮世の中の義理づくや、そんなものが巧く操ってある處に、何人も同感して面白く観る事が出来る。近頃の女優劇は松葉氏の獨舞台といって好い。
 
とかなり高評価されています。
ただ、役者の演技となると話は別で芸術座から引き抜かれた3人について
 
加藤の惣右衛門、達者だが臭いといふ世評であるが、われ等の眼には、臭いとも見えず達者とも見えず、ギチギチした老爺が大いに働くやうのは、子供役者の老役と同無理に体でばかり年寄にならうとするからである。
 
森の健太郎は、役の性根以外にソワソワして、技量が工夫に追はれてゐる状、早くいへば、芸をしてゐる余裕がないが、その初心い處を、氏等の友人は買ふのであらう。
 
横川の若僧、この優は、新派の東といふ男に似て、台詞が調子外れである。若い坊主の役で、その声で、還俗するの恋したのと来ては、幾ら芝居馴れた看客でも、どっというのは当然
 
と手厳しい評価となっています。その上で
 
仮借せずにいへばまだ芸が舞台に着き切ってゐない。友達の書いてゐる雑誌などの好評に気を取られると、物になり損って了ふ。十分にご出精を祈る。
 
と激励で締められています。
因みにこの5人は帝国劇場でしばらく働いていたものの、消息が今一つ分からない林を除く4人は女優劇が幅を占める帝国劇場が窮屈だったのか後に隆盛を極める映画産業に活路を求めて離れて行きました。
そして女優の方はどうかと言うと
 
女優の中では、房子のお玉が好い、何も考えてゐない處が好い。仕事も楽にしてゐる。律子のお粂も巧い、捨て難い恋を棄てる切なさが、可なり上手に現されていゐる。男の古い手紙を背負揚から出し、焦燥しながらその紐を結ぶ様子など、持味になってゐるのは進歩したものだ。然しまだ素人臭いのは、袂を脇腹に着け肩を堅くするなどの工合が、新派の二流どころの芸に似てゐるのは宜しくない。
 
と批判部分はあれど歌舞伎様式の女忠臣蔵に比べると演じやすかったのか評価されています。
この様に男優こそ問題点はあれど女優陣は日ごろの鍛錬が甲斐があったのか上手く演じたのが分かります。
 

滑稽俄安宅新関

 
大喜利の滑稽俄安宅新関は河竹黙阿弥が書き下ろし慶応元年10月に市村座で初演した演目です。
因みに外題の滑稽は「こっけい」とは呼ばず「おどけ」と読みます。
外題や初演時に大切で上演された事からも分かる様に内容は勧進帳の世界を使って富樫が「一芸ある者は召し抱える」という触れを出すと通りすがりの旅人たちが歌舞伎の様々な演目の役を演じるというパロディーに満ちた演目となっています。
今回も
 
妹背山婦女庭訓のお三輪
近頃河原の達引の猿廻し与次郎
傾城阿波鳴門のお鶴
生写朝顔日記の朝顔
嫗山姥の煙草屋源七
 
などが登場しています。
 
彦三郎の弁慶

 
こういう演目とあってか劇評も評価するまでも無いとでも言うのか
 
こっちもお極り
 
以外何も書いていません。
 
今回の公演の詳しい入りの状態について言及した資料は見つけられませんでしたが、この7月は東京の大劇場では他に歌舞伎座しか開いていなかった事からそこそこ人は入ったと見られます。また、今回の公演も前回と同じく半月の公演で月の後半からは
 
・女忠臣蔵
・鎌倉三代記
・若い妻
・流星
 
が上演されたそうです。
この様に閑散月の帝国劇場を支えた女優劇公演は時折大幹部を交えながら続いていく事になります。