明治42年4月 歌舞伎座 羽左衛門の暁雨 | 栢莚の徒然なるままに

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今回は本来なら大正6年1月の歌舞伎座を紹介する予定でしたが丁度良いタイミングで関連深い昔の歌舞伎座の筋書が手に入りましたので先に紹介したいと思います。

 

※注:今回の筋書に出て来る役者名は当時名乗っていた名跡で記しますのでご注意ください。

 

明治42年4月 歌舞伎座

 

演目:

一、侠客春雨傘

二、清正公

三、花上野誉碑

四、女房の心得

 

今回紹介する公演は時系列で言うと以前に紹介した五代目尾上菊五郎七回忌追善公演の翌月の公演に当たります。

 

参考までに五代目尾上菊五郎七回忌追善公演の筋書

 

この時期の歌舞伎座は左團次一門と仁左衛門を除く東京の主だった名題役者が専属ないしは出演していた事もあって打つ公演全てが大入りとなるバブルの様な時代であり、その為か大河内社長もかなり強気な態度で臨んだらしく演目決めの前に主だった幹部役者を集めて
 
この四月興行には、狂言も役割もこっち任せで、俳優は一切苦情をいはぬというやうな芝居をしてみたい。それが出来れば何円損しても惜しくはない。
 
と大見得を切ったそうです。そして役者と言う商売柄見得を切られた以上は切り返さねば気が済まなかったのか
 
決して苦情をいはぬから、思った通りの芝居をして下さい。
 
とこちらも大きく見得を切り返したそうです。この裏には社長就任以来、時に役者にとっては不都合な事も多々あるものの全ての公演で大入りを出して来た大河内の腕を役者達が信用していたという信頼関係があります。その為演目は大河内の好きな様に組めた為に活歴に古典、新作2つと今から見るとかなり攻めの姿勢で臨んでいるのが分かります。

 

侠客春雨傘

 

一番目の侠客春雨傘は前に紹介した様に明治30年に福地桜痴が書いた活歴物の演目です。助六の元ネタになった大口屋暁雨を主人公に据えた活歴版助六とも言える演目で初演時には團十郎の暁雨と源之助の暁雨が評判を呼び彼の書いた作品の内、舞踊物を除けば春日局と共に数少ない大当たり演目となりました。

 

参考までに市村座で上演した時の筋書

 

羽左衛門は明治33年6月に演技座で初演していて今回は2度目の暁雨となりました。今回上演するにあたり歌舞伎座側は團十郎の初演した時の配役をなるべく再現しようと試みました。しかしながら残念な事に当時宮戸座にいた丁山とお民を務めた源之助と明治座と演技座の掛け持ち出演をしていた浮雲を演じていた門之助は出演する事が適わず完全な再現にはなりませんでしたが、それ以外の役者は揃い釣鐘庄兵衛を八百蔵、葛城を歌右衛門、鳶金太郎を高麗蔵、辺見鉄心斎を猿之助がそれぞれ務めています。因みに丁山とお民は梅幸、浮雲は宗十郎が務めています。

因みに羽左衛門が暁雨を務める事について不満に思う役者も少なからずいた様ですが、上記の様に「苦情は言わない」という言質を取られてしまった為に文句もなく納まった様です。

 

劇評では羽左衛門の暁雨について

 

十年以前に演技座で勤めた時よりもグッと鰭がつき、例の鮮やかな調子にて引き立ちたり。

 

羽左衛門の暁雨は大体に於て大した欠点はない。併しどうも貫目が足りない。まだ年の若いせいもあろうけれども、一体に芸がズボラで困る。このズボラということの為めに芸が窘束されず自由にすらすらしていて。見ていてこせつかず大胆にやって退けるのは羽左の特色なのだが、一方に於て非常に毒になる事がある。

 

ゆったりとした旦那らしい貫目は乏しいが、きびしくした江戸っ子気質は遺憾なく現われている。

 

と初演時には大阪にいて團十郎の暁雨を見て居ない関係で一から役を研究した甲斐もあり好評だった羽左衛門も今回は貫目の部分ではやはり團十郎には劣ると批判はあるものの、江戸の無頼者という面ではそれらしさを出せていたという評価となっています。

 

明治45年に再度演じた時の羽左衛門の暁雨

 

一方書卸しの時と同じ配役の役者達はどうだったかと言うと

 

芝翫の葛城は書卸し当時の色気、些ともなく

 

猿之助の鉄心斎は安手に過ぎ、悪気が足らぬ。

 

八百蔵の庄兵衛、猿之助の鉄心斎を向うに回すと、些と食われる傾きがある。

 

八百蔵の釣鐘庄兵衛は書卸しからこの人の当り役だが、ー今度は何となく力が籠っていないようだった。

 

羽左衛門が暁雨なのが不満だったのか何故か芝翫を除いては不評でした。

 

羽左衛門の暁雨、芝翫の浮雲、猿之助の鉄心斎

 

そして新たに務めた2人の内、梅幸の丁山については

 

梅幸の丁山はツンとした所がその人らしい

 

という評価もありましたが

 

梅幸の丁山は廓言葉が不消化で格に入らず、流石に書卸しの源之助はこの一役で買はれた程の持ち味があった

 

と絶品と謳われた源之助には流石に色気の面などで太刀打ちできず不評でした。

 

とこの様に羽左衛門と芝翫を除いては今一つでしたが羽左衛門の暁雨の好評もあり見物の評価としては悪くなかったそうです。

この後羽左衛門は画像にも書きましたが明治45年4月に再演した時には評価をまたグンと上げ次に紹介する大正6年の時には絶賛される程にまで腕を上げていく事になります。

 

清正公

 
中幕の清正公は少し前に市村座で紹介した八陣守護城を下敷きに榎本虎彦が新たに書き下ろした新歌舞伎の時代物となります。
 
参考までに八陣守護城を上演した市村座の筋書


今回は加藤清正の没後三百年祭と3月に清正が従三位の追贈が行われた記念という名目で行われたらしく劇場には清正ゆかりの品々が並べられるなど宣伝にかなり力が入れられていたそうです。そして清正は清正物を得意としてきた師團十郎を間近で見ていた故なのか意外にも高麗蔵が演じる事になりました。
高麗蔵以外の配役はというと徳川家康を八百蔵、豊臣秀頼を宗十郎、浅野泰長を羽左衛門、本多佐渡守を猿之助、阿茶の局を梅幸がそれぞれ務めています。
 
清正物と言えば既に当時から初代中村吉右衛門の評判が良く、あまり演じていない高麗蔵には分が悪いと見られていたらしく劇評では
 
この狂言独り合点の物にて、高麗蔵の清正又独り合点の思入れをなす
 
高麗蔵の清正は白(台詞)廻しに苦心の跡が見えたり、殊に顔の作りを團十郎に似せたるは、例の凝り性より清正其人を写し出すかと思ひしに違ひて、一般に見物に清正らしく肯かせる事の出来しだけに手柄なり。
 
と清正についてかなり史実に忠実に研究して臨んだらしく師匠と同じく本人は満足に演じていたそうですが、前に紹介した浪花座の筋書でも書きましたがこういった顕彰物はどうしてもその人物を美化して描きがちな所はありいくら御座船を基に書いたとはいえ見物には活歴テイストの内容は面白くなかったらしくこちらも見る人によって評価が割れています。
 

花上野誉碑

 
二番目の花上野誉碑は天明8年に司馬芝叟と筒井半平の共作で書かれた時代物の演目です。正確には花上野誉石碑といい、四段目が見取演目として上演されるのが常であり、戦前は志度寺という外題で上演されていました。歌舞伎好きで長らく戦後の舞台を見られている方すらも外題名も通称の志度寺も馴染みが薄いかと思われますが、それもその筈で近世劇檀史によれば今回の上演は明治13年5月に猿若座(中村座)で中村宗十郎が上演して以来29年ぶりの上演と明治42年の段階ですら既に「復活上演」扱いされている演目でした。
内容としては仇討物であり、丸亀家の足軽田宮源八が騙し討ちにより殺され息子の坊太郎は敵の難を逃れる為に四国八十八箇所の一つである志度寺に預けられ、更に敵の目を欺く為にショックで言語障害が起きた様に演技していました。しかし、その迫真の演技に気付かず本当に口が利けなくなってしまったと思った乳母のお辻が金毘羅権現に自分の命と引き換えに口が利ける様に祈願して命を落とすという内容です。
今回はお辻を芝翫、坊太郎を児太郎、源太右衛門を八百蔵、菅谷を梅幸、槌谷内記を宗十郎、了然上人を松助がそれぞれ務めています。
お辻を演じた芝翫は何でもまだ児太郎時代に横浜の舞台で四代目嵐璃寛が演じたのを見て覚えていた上に育ての子の為に命を落とすという大得意とする烈女役なだけに演じやすかったらしく劇評でも
 
長丁場にて淋しき事が損なるを芝翫のお辻が引締めて居たるは流石なり。
 
と舞台では上の画像にもある様に水垢離を行う為に舞台にわざわざ本水を出して打たれる場面を演じる程大車輪に演じたらしくその熱演ぶりを評価されています。しかし、その一方で可愛くて堪らず坊太郎で出した児太郎は
 
児太郎の坊太郎はほんとの不具のように気抜けの体だから、時々舞台がシラけて見える。
 
と口の利けないふりをしている子供という設定が少々荷が重すぎたのか批判されているのと
 
大体この狂言は寂しいのと丁場が長すぎるのとで、好評とは行かなかったのでした。
 
と演目そのものに長丁場過ぎて見物も芝翫の大車輪な熱演には思わず食い入るものの、それ以外の部分でダレてしまう部分が少なからずあったそうです。
 

女房の心得

 
そして大切の女房の心得は後に帝国劇場で心機一転なんていうハチャメチャな喜劇作品を書いた益田太郎冠者が書卸した現代物の新作喜劇となります。
 
参考までに心機一転が上演された帝国劇場の筋書
今回の女房の心得も基本的には同じ方向性で作られていて癇癪持ちの若主人橋本初太郎と我儘育ちの妻菊江の夫婦喧嘩を軸として繰り広げられるドタバタコメディで松助演じる加納源左衛門が菊江を説教して改心し夫婦円満になるという話しになっています。
令和になった今の御時世ならいざ知らず、明治時代の歌舞伎関係者にとっては太郎冠者の演目は拒絶反応が強かったのか劇評には
 
喜劇といふよりも愚劇に近く
 
と批判されていますが皮肉な事にそれまでの活歴風の新歌舞伎や復活演目に食傷気味だった見物にとって何も考えずに見ることが出来るこの演目は相当良かったらしくバカ受けしたそうです
 
さて、この様に大河内輝剛の好きな通りに行った公演でしたが、一見すると慣れない復活物やつまらない活歴物と言われる演目を渋々演じていた様に見えるものの、主役である羽左衛門や芝翫は上手く適応して相当の成績を残した事や原作と演技こそ今一つだった清正公も大河内のアイディアで清正の菩提寺である本妙寺とのタイアップで場内で物品を購入した際に勘定書(レシート)に勝守(お守り)を添える等宣伝をしたり、清正が信仰した法華経で用いる團扇太鼓の団体の買切(貸し切り)もあるなど手堅く固定層を獲得していった事もあり、25日間大入り続きと大成功を納め、売り切れの日には劇場の外に
 
本日もお陰を以て満員と相成り御礼申上候
 
と幕を掲げる様になり、これも一目で入りが分かると評判が良かった事から戦前の売り切れ時にはいつも掲げる物となりました。
この後の公演は前にも少し書きましたが抜け目ない大河内は次は反動で不入りになるに違いないと睨み再び七代目市川團蔵を呼び寄せて佐倉義民伝を演じさせる一方で羽左衛門と梅幸、松助の「三絶」による切られ与三を上演させるなどしてまたもや大入りを記録し10月に亡くなるまで一度も不入りを出した事の無い稀有なセンスを最後まで発揮する事になります。
さて、次回は時代を元に戻して羽左衛門が4回目の暁雨を務めた大正6年の筋書を紹介したいと思います。