今回は市村座の筋書を紹介したいと思います。
大正5年7月 市村座
演目:
前回の歌舞伎座の筋書で触れたように人気絶好調であった市村座連は芝居の不入りである夏場でも人を呼べるとあってか大正2年は田村体制最後の歌舞伎座に、翌年以降も松竹に借りられて歌舞伎座に出演するなど他所の劇場での出演が恒例化していました。しかし、以前触れた帝国劇場との提携により引越公演は8月に移動し松竹とも疎遠になった関係で明治44年以来5年ぶりの本拠地での夏芝居公演となりました。(明治45年は新富座に出演)
序幕の油坊主は正式な外題を油坊主闇夜黒衣といい、所謂「だんまり」です。以前の市村座でもありましたが田村成義は古風な仕来りを守りたがる傾向にあり、これもその1つとなります。
出演しているのは彦三郎、勘彌、東蔵、男寅などもし市村座が吉右衛門の脱退などがなく続いていれば間違いなく座の次世代の主力になるはずだった若手4人です。
劇評によるといつも午後から夜更けまで上演する市村座では時間たっぷりに演じる関係上、しばしば大車輪で時間が伸びてしまう事があり、劇評家が観劇した3日目には14時開場の予定を30分繰り上げて13時半から上演した関係で危うく見そびれかけたそうです。
それはさておき、肝心の内容としては
「彦三郎の平の忠盛狩衣の露を絞って襷に取り花道より駆出たるところ父の俤ありてよけれど勢い込んだる形が絵心ならず(中略)勘彌の油坊主、本名はあれど團十郎はただの坊主、即ち平家物語の活歴で行きたるが、脚本通りなら立廻りの間に最(もう)少し強みと凄みあるべし、東蔵の陸奥四郎為義は新作の時左團次の役なりしも我が身たる時は出ず、これも團十郎の活歴好みにて出ず仕舞なりしとか、それを見たるも早出の一得」
と一部彦三郎は褒められているものの、全体としてはやや厳しめの評価となっています。
一番目の太平記曦鎧はこちらも正しい外題は大塔宮曦鎧といい、初代竹田出雲が享保8年に書いた演目です。
後醍醐天皇が鎌倉幕府の倒幕を目的に挙兵したに元弘の乱を「太平記」を基に書かれた物で幕府方や直接天皇などは登場せず関係する人物の悲喜こもごもが物語の中心となっています。今回は見取演目となっていて二段目の斎藤館の場と夏の場面である三段目の永井右馬頭の館と続く奥庭盆踊りの場が上演されています。まず斎藤館の場ですが後醍醐天皇側の武士である土岐頼員の妻である早咲が鎌倉方である父の斎藤太郎左衛門に朝廷側に寝返って欲しいと孫の力若を連れて頼み込みに来ますが太郎左衛門は拒絶します。しかし、秘かに後を付けてこの様子を見ていた頼員は計画が漏れたと勘違いし責任を取ってその場で自害してしまいます。そして早咲も夫を自害に追い込んだ責任を感じて自らも自害して孫の力若は太郎左衛門が預かる事になります。
吉右衛門の太郎左衛門
続いて永井右馬頭の館及び奥庭の場の内容を要約すると後醍醐天皇の皇子である若宮を斬りに来た斎藤太郎左衛門と永井右馬頭のやり取り、そして我が子鶴千代を若宮の身替りに差し出すが太郎左衛門がそれを見破り奥庭で盆踊りに興じている子供たちの中から若宮を見つけて殺害した…と思いきや実際に首を切ったのは自分の孫である力若だったというもう察しの良い方はお気づきかと思いますが作者の竹田出雲が同じく作った菅原伝授手習鑑の寺子屋を彷彿させるような場となっています。(実際は大塔宮曦鎧が処女作で菅原伝授手習鑑が絶筆である事から寺子屋の場面が今回の奥庭の場の応用していると言えます)
寺子屋の松王丸と武部源蔵を得意役としている菊吉の両名だけに役のハラを十分に呑み込んでいるとあって
「吉右衛門の斎藤太郎左衛門、白髪の岩壁作りも孫には甘く娘の夜中の訪れ気遣いながら悦ばしげに逢いて大人しくなりし力若を褒むるところ親しみありて大よし」
「六波羅攻めの大事を打ち明けると、太郎左衛門屹度なって義強の老武者いつべな娘や孫の愛に溺れぬこの変わり目もよし、土岐頼員の切腹、早咲の自害にも他にして力若を掻き抱きながら陣太鼓を滔々と打ち鳴らせど心中の悲しさに手元狂ひて空撥を打つところに無量の思ひあり」
と孫が可愛い好好爺でありながらも武士としては情に溺れず婿と娘の死に腹で泣きながらも役目を全うする一途さを併せ持つ大役を20代の若さにも関わらず見事に演じて評価されています。
そして早咲を務めた国太郎、頼員を務めた三津五郎、力若を務めた八十助についても
国太郎「夫を思ふあまりに大事を父に打ち明けしその身の浅はかを悔いての自害も情義あらはれてよく」
三津五郎「大事を漏らせし身の罪を責めての切腹も心持ち通りたり」
八十助「早く祖父様に逢ひたいといふが台詞ばかりでなく母と太郎左衛門の挨拶の間ヂット太郎左衛門を見上げているは情あってよし」
と脇も軒並み好評でした。
続く奥庭の場も菊五郎の右馬頭について
「おっとりとした内に分別ある態度も台詞廻しもよく、局若君に望まれて弱りきって拍子も調子も外れがちに唄ふところその役にはまってよし」
「上使の太郎左衛門とのキシミ合も底力ありて大出来」
と源蔵を得意役としただけあって似たような役柄をきちんと理解して演じて劇評家からは予想外の出来栄えだと褒められています。
また、吉右衛門の太郎左衛門も
「永井夫婦にこれこそ若君と鶴千代を見せられ、二人の様子に目を付けて身替りとすぐ悟り、このがきは御邊が一子鶴千代といい破る手強さよく、三位の局の怨言を聞いて腸を絞るほどの苦しみを隠して目じろぎもしないところもよし」
「盆踊になって同じ打扮に同じ花笠の大勢の踊子に目まぐるしく眼鏡を掛けて一人一人あらためる間も身体つきから眼の配り大よし、孫の力若を見つけ出して首打落し、始めて本心明かしての述懐悲歎、こう身を入れて二十日、二十二日の間精根よく続くものと驚くほどの大骨折『魂めいどの鳥となり父よ母よと呼ぶついでに祖父も必ず呼んでくれ』のところ見物肘を張りながら泣かせられたり大出来大出来」
と大得意であるのめり込む演技で大車輪で演じて大絶賛されました。
しかし、右馬頭の妻である花園を演じた菊次郎だけは
「一生懸命にてよけれど若君を囲い我が子鶴千代のところへ来ると、切ていの切れさ切れさと音頭によそえて押しやる、その切れさが只の台詞に聞こえしは如何、これは『今は思いの切りどころ』といふ唄を取って矢張音頭でいふのなれば今少し節を付けて音頭らしく唄ふやうにいいたきものなり」
と断腸の思いで我が子を身代りにするのを隠す為に音頭の歌詞に合わせて言うハラが呑み込めていない故の台詞廻しに注文が付いた他、音頭の中に出てくる満仲(まんじゅう)と読む台詞をあやまって「みつなか」と言ってしまったミスを指摘する等、厳しい評価となりました。
とは言え、菊五郎の予想外の好演と吉右衛門の大車輪もあって総体的には大当たりといって差し支えない出来栄えだったそうです。
中幕の敵討襤褸錦は以前新富座の筋書でも紹介しましたが、初代中村鴈治郎が得意としていた演目で今回は初代中村吉右衛門が春藤次郎左衛門を務めています。
吉右衛門の次郎左衛門、菊五郎の宇田右衛門
上記の事からも分かる様に必然的に鴈治郎との比較となり劇評でも
「吉右衛門の方が写実に近いではあろうがここはもう少しお芝居があっても良いと思った。鴈治郎と比べると哀れさが足りない」
と太平記曦鎧の疲れもあったのかニンに無い役に苦戦していたようです。
一方で菊五郎の宇右衛門は
「真剣に安敵でいて刀を抜きかけての見得もよし」
と対照的にこちらは右馬頭同様にあまりニンに無い立敵を上手く演じて好評でした。
同じく中幕の八重霞賤機帯は一中節の賤機帯を基に作られた舞踊物で明治25年の初演時は賤機帯班女物狂という外題で上演されました。
内容としては我が子の行方を探し求める狂女と船頭による踊りに舟人2人の踊りも付くという物です。舟人に男寅と米蔵、狂女を菊五郎、船頭を三津五郎がそれぞれ演じています。
既に踊りの名手としての名を欲しいままにしていた2人とあって劇評でも
「面白き踊りありて近頃心持よき見物なり」
と好評でした。
大切の上州織時好大縞はご存知国定忠次を描いた作品です。国定忠次といえば上記のリンク先にもある7月の歌舞伎座で紹介しましたが、今回は菊五郎が忠次を務めています。
菊五郎の国定忠次
劇評では
「それぞれ気持のよい出来にて面白し」
と言葉短めながらも褒められています。
余談ですが、菊五郎はこの公演の前月に松竹に一泡吹かせようとした大阪の芦辺倶楽部の山松友次郎という興行師に買われて京都の南座で公演を行ったのですが、松竹はこれが上手く行って味を占めて市村座の連中が大挙して大阪に来て公演をされたら困ると思ったのか山松に対して断る口実で賃貸料を思いっきり吹っ掛けて5,000円(現在の貨幣価値で約1,600万円)で貸すといったのを呑んでしまったは良いものの、トラブルも重なった上に急遽二の替りをしなければならない程の記録的な不入りとなったらしく、結果的に6000円(約2,000万円)の赤字となり、山松の計画(?)は御破算となり、プライドの高い菊五郎にとっては耐え難い屈辱だったらしく今回はその雪辱もあってかなり気合が入っていたようです。
この様に一番目の太平記曦鎧の大当たりもあって関わらず今回も大入りを記録し5年ぶりの本拠地での夏芝居を成功に導きました。
そしてこの後一同休むことなく帝国劇場の引越公演に臨みすぐさま市村座に戻り9月公演を行う多忙な日々を過ごす事になります。