大正5年4月 明治座 初代中村又五郎の孤軍奮闘 | 栢莚の徒然なるままに

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今回は久しぶりに明治座の筋書を紹介したいと思います。

 
大正5年4月 明治座
 
演目:
 
伊井容蜂が松竹に貸借した大正3年以来すっかり松竹の芝居小屋となっていた明治座ですが、この時期は本郷座と共に新派と歌舞伎を交互に上演していました。丁度この月は左團次が歌舞伎座の五代目中村福助襲名披露公演に出演していた関係でまたもや座頭のいない左團次一門が芝居を打つ事になりました。生憎以前に上置きに迎えた猿之助も歌舞伎座に出演中とあって左團次一門の若手である初代中村又五郎、六代目市川壽美蔵が中心となって上置きに左團次の叔父である五代目市川小團次を迎えてそこに堀越福三郎が加わる形の座組となりました。
 
ここで初代中村又五郎について紹介したいと思います。実子の二代目又五郎が長年に渡り脇役の重鎮として活躍した事からイメージしにくいと思いますが初代又五郎は立役として主役を務められるだけの技量を持っていた役者でした。生まれは大阪で初代中村歌六の孫とされている中村紫琴の子供として生まれて大阪で初舞台を踏み主に当初は父親と一緒に活動していました。しかし明治29年に紫琴が亡くなり劇界の孤児になると又五郎は上京して当時盛んになりつつあった新富座の子供芝居に入り腕を磨く事になりました。その頃の子供芝居は新富座と浅草座の2つに分かれていて浅草座の方が七代目澤村訥子の長男である初代助高屋小傳次と初代中村吉右衛門、新富座の方が二代目坂東八十助(七代目坂東三津五郎)と坂東三田八(十三代目守田勘彌)がいました。又五郎はこの内新富座の方の一座に加わりメキメキと腕を上げ小傳次の急死後座頭となった吉右衛門と共に子供歌舞伎の隆盛を築き上げました。その子供歌舞伎が次第に衰退し始めると暫くは小芝居の劇場や横浜の舞台に上がっていましたが明治40年代に左團次一門に合流し中堅所の位置にいました。
そのまま順調にいけば壽美蔵と共に左團次一門の重鎮になる未来もありましたが今回の様に左團次さえいなければ座頭になるだけの腕を持ち独立不羈に富む又五郎はこの頃大阪では鴈治郎がいる為に十分に活躍する場所が与えられていなかった四代目片岡我童が上京して左團次一門と共演し始めた事により段々と自分の持ち役を奪われ始めていて次第に一門の中でのポジションに不満を抱いていました。そんな事もあって丁度この公演から1年後の大正6年4月に公園劇場に座頭として引き抜かれて拠点を浅草へと移すと水を得た魚の様に吉右衛門が得意とする時代物や鴈治郎が得意とする上方和事など様々な役を演じて公園劇場の観劇料を跳ね上げる程の人気を獲得しました。
しかし、引き抜かれてから僅か3年後の大正9年に身体を病み僅か6歳の幸雄(二代目中村又五郎)を残して急逝してしまいました。
初代同様に劇界の孤児になった幸雄は父のライバルであった初代中村吉右衛門に引き取られて初舞台を踏む事になりますがその事は後日の筋書でまた紹介したいと思います。
 
塩原多助二代鑑

 
さて一番目の塩原多助二代鑑は以前歌舞伎座の筋書で紹介した塩原多助経済鑑の続編に当たる作品で中村秋湖という若手小説家が連載中の作品を舞台化した物です。
 
参考までに歌舞伎座の筋書

 

 

 

歌舞伎座の回でも触れた様に歌舞伎で上演されるのは専ら作品の前半部分である初代の多助が生家から出て江戸で商いを始め苦心惨憺の末に巨万の富を稼ぐという出世譚の部分のみでしたが、今回の続編は後日譚の作品となっていて折角一代で財を成したにも関わらず不出来な息子の二代目太助が芸者のお妻に入れ込んで家を苦境に陥らせてしまい家族が奔走して折角大枚の持参金を持つ嫁と結婚させようとするも婚礼のその夜に懲りもせず500両の持参金を奪い取って芸者の所に行こうとするも間違えて別の物を持ってきた挙げ句に探すのに使った蝋燭の火を消さずに出ていったせいで火事になり家を全焼させてしまい、芸者にも裏切られてしまうという散々な目に会った後に漸く遅すぎる改心して家を建て直すという原作の後半部分をベースに筆を加えて様々な主要な人物の息子を出して経済鏡を意識した場面作って怪談噺から脱却させた様な内容となっています。
 
又五郎の塩原多助と松蔦のお園

 
又五郎はダメ息子の二代目多助と盗賊の二代目子狐徳次郎の二役、壽美蔵は継立の仁三郎、屑屋久蔵、数乃の計三役を務めています。
劇評ではまず
 
時々舞台の感じが明瞭でない
 
家を抜け出して芸者お妻と舟で出会うと船頭に化けてたお妻の情夫の継立の仁三郎に川へ突き落とされそれが助かって野州駒飛村に来て炭焼となるは水火に身を鍛えて働くといふ意味か、左様でもなければ二代鏡という鏡にならず。ふとした富のくじが当たって身上を持ち直すなどはまぐれ当たりで昔の地味な商人は嫌う事なり
 
と心を入れ換えて地道に商売をした暁の家名再興…ではなく宝くじに当たって再び金持ちになるという設定が些か安直すぎたらしくこの点ついては批判しています。
しかし、又五郎の二代目多助については
 
又五郎の多助はよくしていて浅草反圃掛茶屋の壽美蔵の屑屋久蔵と一分の金を互いに譲り合う律儀さは初代多助が樽屋久八との問答の趣あって壽美蔵の屑久もそっくり樽久で良し
 
大車輪で駆け散らして目まぐるしく面白く見せて景気よし
 
と「塩原多助経済鏡」の場面を彷彿させる場も設けられている上に又五郎の熱演もあって作品の拙さを補っていたようです。
 
そしてもう一役の二代目子狐徳次郎についても
 
汐入村庵室の場で父に廻り合ひ、池の端ではお園に路用を恵み冬木の豊田屋に忍び入って鬼総と呼ばれる高利貸しを殺し、下谷の瑞龍では仁三郎お妻弟子二人を皆殺しにしてお園を救い出すなど大向ふにキビキビと受ける事ばかりで大当たりなり
 
と悪役を演じて好評でした。
対して壽美蔵の残りの仁三郎と数乃は
 
継立の仁助の倅でまた二代の悪党だが後に易者に化けているのが不似合いなり
 
数乃といふ痣娘は多助に惚れて嫉妬から狂乱になり我手に疵を負ふて花の盛りの桜の木によりかかりて凄ひ笑いなどは新しがり過ぎたる形なり
 
と何れも不味い所や新歌舞伎の様な演じ方があったらしくあまり芳しく評価はされていません。
 
菅原伝授手習鏡

 
中幕の菅原伝授手習鏡は有名な車引のみの見取り上演となります。こちらでは松王丸を小團次、梅王丸を福三郎、桜丸を壽美蔵、藤原時平を九蔵がそれぞれ務めています。
 
これについて劇評は
 
相変わらずの素劇でこれは感心しませんでした。それに連れて小團次の松王も酷く悪かったと思います
 
と言葉も少なめに福三郎、小團次が足を引っ張った事を言及しているのみで不評でした。
  
 妹背門松

 
二番目の妹背門松は以前歌舞伎座の筋書で紹介しましたが初代市川斎入の得意とした演目でした。今回は3月に亡くなった斎入の追善の意味合いもあったのか異母弟の小團次が久作を務めています。
 
歌舞伎座での斎入の妹背門松

 

 

 
こちらについても
 
壽美蔵の久松はスッキリとした好い男振りですが(中略)色彩が薄く見えます
 
松蔦のお染も綺麗で可憐でしたがどうも油屋の娘さんとしての色気に乏しい感じがしました。
 
と若手2人が一長一短に加えて
 
小團次の久作は何だか出し殻のやうな気がしました。
 
と枯淡の味わいを見せた斎入には遠く及ばなかった様でこちらも不評でした。
 
心中翌の噂

 
大切りの心中翌の噂はそのままお染久松物の続編の所作事で久松の許嫁であるお光が精神に異常をきたしてしまい猿回し佐次兵衛や子守女のお作と踊るという主筋と本来なら心中して果てるお染久松がひょんなことから心中しなくて済み目出度く終わるという後味の良い終わり方をする演目です。
しかし劇評家は妹背門松の不味さの余りに妹背門松を観終わった所で出てしまい見てないという事で劇評が残っていません…。
 
さて、気になる成績の方はご覧の様に塩原多助二代鑑こそ良かったものの、残りの演目についてはイマイチなのと猿之助の様な独創性とネームバリューを又五郎と壽美蔵に求めるのは流石に無理があり同時に行われている歌舞伎座と市村座には完全に太刀打ちできずあまり芳しくない入りだったようです。
 
上記の様に又五郎はこの翌年に脱退し、一門の若手は壽美蔵と後に猿之助が加わり両頭体制となりますが左團次自伝でも書いた様にカリスマ性の塊ともいえる左團次がいない一座では集客性に乏しいという一面が図らずも今回の結果からも伺えて左團次亡き後の一座の運命が暗示されるような公演だったとも言えます。