ニーチェにキリスト教の本質を教えてもらう ⑩ | “縄文の蘇り”&”ろくでもない世界”の粉砕

“縄文の蘇り”&”ろくでもない世界”の粉砕

第一ステップ:戦後の常識の徹底的な破壊(GHQの洗脳解除)
第二ステップ:弥生以降の常識の破壊(大陸思想の廃棄)
第三ステップ:奥底に眠っている縄文人DNAの起動

①から⑨までの要旨は、


「ユダヤ人は生き延びるために

旧約聖書の世界(ユダヤ教)を創造した。

 

しかし、それは自然価値と矛盾するものであり、

不自然な価値観にもとづく、偽造された世界である。

 

それは、古い神が民族を救ってくれなかったので

僧侶たちが古い神を仮面にして、

 

自分たちが隠れた新しい神となって

宗教や道徳や歴史をねじ曲げてしまった。

 

キリスト教はユダヤ教の本質をマネして成立した。

 

それが全世界に甚大な影響を及ぼしている。

ギリシャ・ローマの古代文化を台なしにしてしまった。」

 

でした。

 

 

ニーチェにキリスト教の本質を教えてもらう ①

ニーチェにキリスト教の本質を教えてもらう ②

ニーチェにキリスト教の本質を教えてもらう ③

ニーチェにキリスト教の本質を教えてもらう ④

ニーチェにキリスト教の本質を教えてもらう ⑤

ニーチェにキリスト教の本質を教えてもらう ⑥

ニーチェにキリスト教の本質を教えてもらう ⑦

ニーチェにキリスト教の本質を教えてもらう ⑧

ニーチェにキリスト教の本質を教えてもらう ⑨

 

 

今日は最後にニーチェの結論を見てみましょう。

 

 

『私はキリスト教のほんとうの歴史を物語る。

すでに「キリスト教」という言葉が一つの誤解である。

 

根本においてはただ一人のキリスト者がいただけであって、

その人は十字架で死んだのである。

 

この瞬間以来「福音」と呼ばれているものは、

すでに、その人が生きぬいたものとは

反対のものであった。

 

すなわち、「悪しき音信」、

禍音であった。

 

「信仰」のうちに、たとえば

キリストによる救済の信仰のうちに、

 

キリスト者のしるしを見てとるとすれば、

それは馬鹿げきった誤りである。

 

たんにキリスト教的実践のみが、

十字架で死んだその人が生きぬいたと同じ生のみが、

 

キリスト教的なのである。』

 

 

『(イエスの)死がはじめて、

使徒たちに本来の謎を提示した。

 

あれは誰であったのか

あれは何であったのか?」

 

いまやはじめて深淵が口を開いた。

 

「彼を殺してしまったのは誰か?

彼のほんとうの敵は誰であったのか?」

 

こうした問いが閃光のごとくひらめいたのである。

 

答え、

 

支配権をにぎっているユダヤ人たち、

その最上流階級。

 

この瞬間以来彼らはおのれたちが

秩序に反抗する叛乱のうちにあると自覚し、

 

その後はイエスをも

秩序に反抗して叛乱をくわだてたと解した。

 

いまやはじめて、パリサイ人や神学者に対する

軽蔑や反感の全部が師の類型のうちへと持ち込まれた。

 

かくして師その人が一箇のパリサイ人、

神学者にでっちあげられた

 

他方、これらまったくの支離滅裂におちいった者どもの

凶暴となった崇拝は、イエスが教えたところの、

 

誰にも神の子たるの資格をあたえる

あの福音的な平等観はもはや我慢できなくなった。

 

彼らの復讐は、法外な仕方でイエスを持ち上げ

おのれたちから引きはなすことであったのである。

 

あたかも、以前ユダヤ人がその敵たちへの復讐から

その神をおのれたちから引きはなして、

 

高所に持ち上げてしまったのとまったく同様である。

 

ただ一つの神とただ一人の神の子、

この両者こそルサンチマンも所産である・・・

 

 

『そしてこのとき以来、「どうして神はこのことを

許容しえたのか?」という途方もない問題が浮かび出てきた。

 

これに対して、あの小集団の錯乱した理性が見出したのは、

まさに怖るべく途方もない答えである、

 

すなわち、神はその独り子を罪の赦しのために与えた、

犠牲として。

 

なんと福音が一挙に終わってしまったことか!

 

贖罪の犠牲、しかもこのうえなく厭わしい、

このうえなく野蛮な形式のそれ、

 

負い目なき者

負い目ある者の罪を贖う犠牲とは!

 

なんたる戦慄すべき異教であることか!』

 

 

『これで私は結論に達したので、私の判決を下す。

私はキリスト教に有罪と判決する。

 

キリスト教に対するこの永遠の告訴を私は、

所構わず至るところに掲げようと思う。

 

私は盲者ですら見ることのできる文字をもっている。

 

私はキリスト教を、一箇の大いなる呪詛、

一箇の大いなる最も内的な頽廃、

 

どんな手段とてそれにとっては有害で、陰険で、

地下的で、卑小にすぎるということのない

 

一箇の大いなる復讐本能と呼ぶ。

 

私はそれを一箇の不滅な人類の汚点と呼ぶ。

 

しかも時間は、

この宿業が始まったこの凶日をもとにして、

 

キリストの最初の日をもとにして、

数えられているとは!

 

なぜむしろその最後の日をもとにして数えないのか?

今日をもとにして?

 

すべての価値の価値転換!』

 

(~ニーチェ著 理想社刊

 『ニーチェ全集第十三巻 反キリスト者』 より~)

 

 

牧師の子として生れたニーチェの

怒涛のごとき有罪の宣告でした。

 

家族や知人との葛藤や躊躇などは

並たいていのものではなかったはずです。

 

それらを克服し、

 

何千年もの間人類に災いをもたらした

キリスト教のまやかしを暴いてとどめを刺し、

 

自分が人類に幸いをもたらすのだという

”至高の自負心を抱いて”いました。

 

そして”不滅の確信”を失うことなく、

 

神のごとき高揚感を抱きつつ

狂気の世界におちていきました。

 

あまりの充実感に脳神経が

耐えられなかったかのように。