頭痛・肩こり・腰痛解消なら呉市広の整体師:宮岡です。

今回の話題は「バナナの悲しい歴史」です。
今回はバナナのお話です。
昭和13年生まれの父にとっては、バナナは高級品だそうです。
病気をした時にしか食べられなかったそうです。

南国の果物ですが、一年中食べられるバナナですが
バナナの歴史には、悲しい歴史…冷酷非情な支配構造の歴史があるようです。

バナナは、東南アジアが原産の植物です。
栽培が始まったのは、数千年前だと考えられています。

栽培化の過程で、可食部を増やそうとして、種子のない変異体ばかりを栽培した結果
自力では子孫を残せない品種しか残らなくなりました。

これだけでも、充分、悲しいですが・・・


自力では子孫を残せないので、成熟した株の地下茎(球茎)から出た芽(吸芽)を
切り取って、移し植える必要があります。

こうして増えたバナナは、当然ながら、全て同じ遺伝子を持つことになります。


バナナがインド洋を渡って、アフリカに達したのは
紀元前2000年~後1000年まで頃だったと考えられています。

1470年代に最初のヨーロッパ人(ポルトガル人)が
サハラ砂漠以南のアフリカを訪れた時には
アフリカの西海岸では、遅くとも数百年前から、早ければ1000年以上前から
バナナが自生していたようです。

「バナナ」という呼び名は、ポルトガル人が
中西部アフリカのバンツー語を元につけたようです。

しかし、皮肉にも、ヨーロッパ人が初めてバナナと出会ったのは
バナナの故郷東南アジアにおいてで、1521年のことだったようです。

すなわち、ポルトガルの航海者フェルディナンド・マゼランが
太平洋に到達した航海の時でした。

ポルトガル人は、マデイラ諸島やカナリア諸島(1479年までポルトガルが一部を領有)では
アフリカ人奴隷にバナナを食べさせて、砂糖を作らせていました。

アメリカにアフリカ人を奴隷として送り始めた時には
お米とバナナを奴隷船に詰め込んで、奴隷の主食にしました。

プランテーションでは、奴隷は、自分たちに与えられた狭い土地でバナナを栽培し
粗末な配給食の足しにするよう促されました。


最低限の労力を投じるだけで、1エーカー当たり9万キロのバナナが収穫できました。
これは、ヤムイモの約10倍、ジャガイモの約100倍に相当します。

したがって、奴隷にできるだけ余計な時間を使わせたくない奴隷の所有者にとっては
理想的な作物でした。


バナナは当初、奴隷の労働力にもとづいたプランテーション経済を支える歯車として
アメリカ大陸にもたらされましたが、数世紀後には
南北アメリカの数多くの国々の輸出経済を支えるまでになりました。

19世紀末、鉄道や蒸氣船、冷蔵技術の進歩のおかげで
傷みやすい農作物も遠く離れた国々に輸出することがしだいに可能になりました。
特にこの進歩の恩恵を受けたのが、バナナでした。

バナナは腐りやすかったので、19世紀末までは
アメリカですら少量しか売られていない貴重な果物でした。

アメリカへの大規模なバナナの輸出が可能になったことで
ユナイテッド・フルーツ(現チキータ)や
そのライバル企業スタンダード・フルーツ(現ドール)をはじめ
アメリカ企業はこぞってカリブ海(キューバ、ドミニカ共和国、ハイチ)や
中央アメリカ(パナマ、グアテマラ、ホンジュラス、コスタリカ、ニカラグア)や
南米北部(ロンビア、エクアドル)にバナナのプランテーションを設立しました。

それらの国々の経済は、ほどなくアメリカのバナナ企業に支配されることとなりました。
例えば、ホンジュラスでは、鉄道、電灯、郵便、電信・電話が
ユナイテッド・フルーツとスタンダード・フルーツの管轄下に置かれました。

1930年代のグアテマラでは、ユナイテッド・フルーツが
国内最大の地主、雇用主、輸出業者にして、国内のほぼ全ての鉄道の所有者になりました。
バナナに依存した国々の人々は、そんなアメリカのバナナ企業を「エル・プルポ」
つまり「タコ」と呼びましだ。
自国経済のあらゆる面を支配されてr、逃れることができなかったからです。


当然ながら、各国の経済を掌握したバナナ企業の絶大な影響力は
その国の政治にも及びました。

バナナ企業は、自前の税関や警察すら持ち、その商売はその国の管轄権外に置かれました。
政治家は買収されて、「経済重視」の政策を約束させられました。

バナナ企業の利益に反することを企てる政府があれば
例えば、極端に低い税率を更に低い税率にまで引き上げるとか
バナナ企業に未使用の土地を売却させるとか
労働者の権利をわずかに強くするとか
バナナ企業の支援を受けたクーデターが起こされました。

フィリバスター(「海賊」を意味するオランダ語に由来)と呼ばれるアメリカの傭兵が
そのクーデターに参加することもありました。

20世紀の前半を通じ、それらの国には頻繁に、アメリカの企業
とりわけバナナ企業の利益を守るため、アメリカから海兵隊が送り込まれました。


アメリカのバナナ企業が更に悪名を馳せたのは
コロンビアでのいわゆる「バナナ大虐殺」です。

1928年の秋、ユナイテッド・フルーツの労働者がストライキを起こしました。

その趣旨は、トイレと医療設備を設置することでした。
そして、賃金を値が張る自社の売店でしか使えないクーポンではなく、現金で支払うこと
労働者を貧弱な労働法で定められている
最低限の保護を受けられない下請け業者としてでなく、従業員として扱うことでしだ。


ストライキが長引くようなら軍事介入すると脅すアメリカ政府の圧力をかけられ
周囲の国々の経験を見れば、それが単なる脅しでないことは明らかな状態で
コロンビア政府は、12月6日、武力でストライキを鎮圧する行動に出ました。

これにより、バナナの町シエナガでストライキに参加していた労働者が
多数射殺されました。
その数は、47人とも2000人とも言われています。


このバナナ大虐殺はノーベル文学賞を受賞した
コロンビアの小説家ガブリエル・ガルシア・マルケスの手によって
『百年の孤独』の中でまとめられました。

その小説の中で描かれるこの事件では、3000人以上の労働者が殺されて
その遺体が鉄道の貨車でマコンド(小説中の架空の町)のバナナプランテーションから
運び出され、虐殺の証拠がすべて隠滅される内容です。

19世紀末から20世紀半ばまで
アメリカのバナナ企業のこのような過酷な支配下に置かれた
中央アメリカや南米北部の国々は、「バナナ共和国」と呼ばれるようになりました。

この呼び名が最初に使われたのは
アメリカの短編小説作家O・ヘンリー(本名ウィリアム・シドニー・ポーター)の
1904年の短編『提督』においてでした。

アンチュラというホンジュラスがモデルの架空の国を舞台とするその短編で
O・ヘンリーは、財政的にも組織的にもみじめな状態にある政府を描き
アンチュラを「バナナ共和国」と呼びました。


約半世紀後の1950年には
チリの詩人でノーベル文学賞受賞者であるパブロ・ネルーダが
「ユナイテッド・フルーツ・カンパニー」という詩の中で
「バナナ共和国」のことを語り、更にこの呼び名が広く知られるようになりました。

現在のアメリカや富裕国では、「バナナ共和国(リパブリック)」という言葉は
服のブランド名としてしか知らない人がほとんどのようです。

しかし、本来は、貧しい途上国が富裕国の大企業に専制的な支配を受けるという
暗い現実を表現した言葉です。

こうした悲しい背景を知ったうえで服のブランド名に使うのは
いかがなものでしょうか…?

いや、こうした背景を知らずに使ったのでしょう。

今回は、バナナの悲しい歴史についてお話ししました。
バナナを食べる時の印象が変わるかもしれませんが
少しでもお役に立てれば幸いです。
ご精読ありがとうございます。






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