竹鶴さんのお話し…最終回
皆様、こんにちは
竹鶴さんのお話し最終回。
昭和15年に竹鶴さんが自らの手によって発売したニッカウイスキーの売れ行きはというと?
実は答えがありません。
発売2ヶ月後にウイスキーなどは贅沢品として製造販売が制限されるようになったと言われています。
昭和14年、第二次世界大戦が始まり、余市蒸留所は海軍の監督工場に指定されウイスキーは海軍が買いあげることになります。ただそのおかげで、物質が貧しい時代も大麦の配給を受けることができ、後の財産となる原酒をつくり続けることができたそうです。
終戦後はウイスキーの消費増大とともに昭和27年、東京に本社を移し社名をニッカウイスキーに変更、昭和44年には仙台宮城峡工場がニッカの第2蒸留所として誕生。
現在、スーパーニッカ、ブラックニッカ、シングルモルト余市、シングルモルト宮城峡、鶴、竹鶴ピュアモルトなどの商品をつくり続けています。
竹鶴政孝さん昭和54年8月29日、85歳で永眠。最後の入院した時も、医者はウイスキーを飲むことを認めてくれたそうで、嬉しいそうに水割りを飲み続けたそうです。
最後になりますがブログを通して竹鶴さんのひとりでも多くの人に本物のウイスキーを飲んでもらいたいという信念、思いが少しでも伝わったら幸いです。
ありがとうございました。
*平成20年4月、英専門誌が主催する国際コンペ「ワールド・ウイスキー・アワード(WWA)」で、ニッカの「余市1987」が、世界一のシングルモルト・ウイスキーに選ばれる。
終わり
高野

竹鶴さんのお話し最終回。
昭和15年に竹鶴さんが自らの手によって発売したニッカウイスキーの売れ行きはというと?
実は答えがありません。
発売2ヶ月後にウイスキーなどは贅沢品として製造販売が制限されるようになったと言われています。
昭和14年、第二次世界大戦が始まり、余市蒸留所は海軍の監督工場に指定されウイスキーは海軍が買いあげることになります。ただそのおかげで、物質が貧しい時代も大麦の配給を受けることができ、後の財産となる原酒をつくり続けることができたそうです。
終戦後はウイスキーの消費増大とともに昭和27年、東京に本社を移し社名をニッカウイスキーに変更、昭和44年には仙台宮城峡工場がニッカの第2蒸留所として誕生。
現在、スーパーニッカ、ブラックニッカ、シングルモルト余市、シングルモルト宮城峡、鶴、竹鶴ピュアモルトなどの商品をつくり続けています。
竹鶴政孝さん昭和54年8月29日、85歳で永眠。最後の入院した時も、医者はウイスキーを飲むことを認めてくれたそうで、嬉しいそうに水割りを飲み続けたそうです。
最後になりますがブログを通して竹鶴さんのひとりでも多くの人に本物のウイスキーを飲んでもらいたいという信念、思いが少しでも伝わったら幸いです。
ありがとうございました。
*平成20年4月、英専門誌が主催する国際コンペ「ワールド・ウイスキー・アワード(WWA)」で、ニッカの「余市1987」が、世界一のシングルモルト・ウイスキーに選ばれる。
終わり
高野
竹鶴さんのお話し…その7
皆様、こんにちは
今日も竹鶴さんのお話し
昭和9(1934)年7月2日、竹鶴さんは北海道余市町に大日本果汁株式会社を設立しました。
余市にはウイスキーづくりに必要なものがすべてありました。寒冷地で適度に湿度のある気候風土、良品な水、豊富なピート層。さらに北海道は大麦の産地で樽材になる木も潤沢でした。。そして蒸留に必要な石炭も豊富。
竹鶴さんいわく霧がたちこめる朝などスコットランドにそっくりだったそうです。
ウイスキーづくりは、何年か先を目標にする気長な事業。熟成するまでに、事業が持ちこたえられるかどうかに、成否がかかっています。まずはすぐに売れるジュースを販売しながら、ウイスキーを育てることに。そのゆえに大日本果汁という社名になったそうです。
社員一丸となって新事業へと意欲を燃やしていた大日本果汁でしたが、食いつなぐはずのリンゴジュースが売れなかったこともあり2年目ですでに赤字は莫大なものになっていました。
昭和11年夏、竹鶴さんはウイスキーの蒸留を始め、昭和15年10月、第1号ウイスキーが出荷されました。 初めて自分の手でだけで生み出した竹鶴さんは、大日本果汁を略してニッカ(日果)ウイスキーと命名しました。
初出荷の日は社員全員が門に整列して積荷に向かい思わず敬礼してしまったそうです。
続く
高野

今日も竹鶴さんのお話し
昭和9(1934)年7月2日、竹鶴さんは北海道余市町に大日本果汁株式会社を設立しました。
余市にはウイスキーづくりに必要なものがすべてありました。寒冷地で適度に湿度のある気候風土、良品な水、豊富なピート層。さらに北海道は大麦の産地で樽材になる木も潤沢でした。。そして蒸留に必要な石炭も豊富。
竹鶴さんいわく霧がたちこめる朝などスコットランドにそっくりだったそうです。
ウイスキーづくりは、何年か先を目標にする気長な事業。熟成するまでに、事業が持ちこたえられるかどうかに、成否がかかっています。まずはすぐに売れるジュースを販売しながら、ウイスキーを育てることに。そのゆえに大日本果汁という社名になったそうです。
社員一丸となって新事業へと意欲を燃やしていた大日本果汁でしたが、食いつなぐはずのリンゴジュースが売れなかったこともあり2年目ですでに赤字は莫大なものになっていました。
昭和11年夏、竹鶴さんはウイスキーの蒸留を始め、昭和15年10月、第1号ウイスキーが出荷されました。 初めて自分の手でだけで生み出した竹鶴さんは、大日本果汁を略してニッカ(日果)ウイスキーと命名しました。
初出荷の日は社員全員が門に整列して積荷に向かい思わず敬礼してしまったそうです。
続く
高野

