私の出身中高は、数学は異常に厳しかった反面、文系科目の授業レベルは低く、多くの生徒は真面目に授業を聞いておらず、 寝ているか数学の宿題の内職をやる時間になっていました。
私もご多分に漏れず、こうした授業を真面目に聞くことはなく、授業中はずっと読書をしていました。
どんな学校の図書室や、どんな田舎町の小さな図書館にも大抵置いてある世界文学全集(ほとんど借りる人もいないので、古くても案外きれいなことが多い)を片っ端から読み漁っていました。
短編小説よりも、どちらかといえば長編小説の方が好きでした。
中1の頃は日本文学が中心。入学直後に読んだ下村湖人の「次郎物語」が大変面白く、その後に石坂洋次郎や志賀直哉あたりの小説を読み漁っていました。
そういうお堅い小説ばかりではなく、当時流行っていた赤川次郎の推理小説もかなり読みましたよ。そのうち飽き足らなくなってきたので、松本清張や森村誠一を毎日一冊以上のペースで読んだ時期もありました。
西洋文学に手を出したのは中2くらいだったと思います。最初のうちは色々な国の文学作品を読んでいましたが、途中からはフランス文学とロシア文学が中心になりました。フランス文学はスタンダールとモーパッサン、ロシア文学はトルストイとドストエフスキーがお気に入りでした。このあたりの文豪のメジャー作品の大半は、中2か中3あたりに読みました。
こうした小説にはヨーロッパの地名がたくさん出てきますが、位置関係が全然分からなかったので、地図帳を手元に置きながら読んでいました。また、ヨーロッパの近代史が分からないと小説の内容が理解できない (ナポレオンのロシア侵攻の史実を知っていないと、トルストイの「戦争の平和」の内容は理解できない) ので、世界史資料集を無為に何時間も眺めて過ごす、なんてこともよくありました。中央公論社の「世界の歴史」「日本の歴史」シリーズも読み漁りました。
フランス語とロシア語もNHKのラジオ講座で少しだけ勉強してみました。地方にはフランス語やロシア語の書籍なんてなかったので、大学に入ったら原文で読みたいなあ、なんて思っていました。
高1くらいになると、シドニー・シェルダンの小説を原文で読み漁るようになりました。
あと、読書ではありませんけど、古い洋画(テレビ番組を録画したやつ)を見まくっていました。映画で使われている英語表現を学ぶのは、学校の英語の授業よりも格段に役に立ちました。映画を見た後に、風と共に去りぬ、エデンの東、ゴッドファーザーの原作を読んだりしていました。日本語版だけでなく、風と共に去りぬの英語版や、ローマの休日の日英対訳のトランスクリプトが図書館の書庫にあったので、保健室に行くふりをして授業をサボって読んでいました。
英語圏以外、例えば1950-60年代のフランス映画も結構観ましたね
Z会の国語の通信添削で出てきた評論・論説文の中で気に入ったものの原典を図書館で借りてきて読み漁る、なんてこともよくやっていました。
国語の記述は得意でした。京大模試の国語で一度だけ全国トップになったことがありました😁
こうした行為は、決して大学受験のためにやったわけではありませんが、結果として大学受験にかなり役立ったのかな、とは思います。
これが一般的な勉強法だとは思いませんし、これを我が子や他の受験生に真似をしろというつもりもありません。
スマホがなかった時代だったからできたのかもしれませんし、私も今の時代に学生をやっていたらスマホ中毒になっていて、読書なんかしなかったかもしれません。
が、今の時代はこれだけインターネットが普及しているのですから、必ずしも紙媒体である必要はなく、例えば、「自分の興味があることをネットで検索して深堀りしてみた」でも全く構わないわけです。
今の時代でも、与えられたカリキュラムをこなすことだけが勉強ではないはずです。まだ高3でもないのに、「塾の勉強が忙しいから本なんて読んでいる時間がありません」は、私には理解できません。高2くらいまでは、塾や学校の勉強よりも、自分が好きでやったことから得た知識や経験の方が、結果としては大学受験に役立つはずです。
受験に読書は必要だと思います。
しかし、大学受験のために読書をするのではなく、自分が好きだと思ったことを掘り下げる姿勢が大切だと思います。