中学受験をするということは、「均質性」と「多様性」の両方を希求することだと考えます。
地元公立中に進学した場合、成績レベルも家庭環境も様々な生徒がいます。
その意味において、生徒全体の質は「多様性」に富んでいます。
しかし、いわゆる万人受けすることが良いことだとされるので、生徒一人一人に求められる人物像は、むしろ「均質的」なのかもしれません。 個人的に「画一」とか「均一」とかという言葉は好きではないので、「均質」という言葉を用いることにします。
- 学力だけでは、一定レベルに達してしまうともはや差がつかない
- 内申書の点数を上げるためには、主要科目だけでなく、音楽・美術・体育といった全科目が万遍なくできることが要求される
- それが時にして、教師の前で要領よく立ち回ることができる「いい子」が高評価の対象となり、尖がった個性を持つ子を排除してしまう場合がある
- 似たような学力レベルの生徒が集まってくるので、授業のレベルが高すぎたり低すぎたりするリスクは少なくなる
- (大学の指定校推薦を目指さない限りは)内申書もそれほど気にする必要はない
- 前述の「共通項」さえ外さなければ、公立では排除されてしまうかもしれない個性が受け入れられる余地は大きい
ということで、その分、生徒一人一人の「多様性」は尊重されるのだと思います。
なので、中学受験をするということは、自身に合った環境の「均質性」と、自身を尊重してくれる「多様性」の両方を希求することだと思うのです。
自分と共通項のある仲間と切磋琢磨し、人生観を育み、人生の方向性を見出す基盤を作る。
そして生涯の友に巡り合う。
どんな学校に進学してもそれは可能だとは思いますが、自身の価値観に合った学校の方が、それが容易になるはずです。
この多感な時期の過ごし方は、一生を左右します。
この言葉にできない「何か」を獲得させるために、できるだけいい環境で学ばせたい、
大学入試の結果は、あくまでもそれに付随してついてくる結果にすぎません。
大学進学実績、特に東大合格者数だけに拘って学校選びをすると、入学した後で後悔するリスクが高くなると思うのです。
確かに、大学進学実績をそれなりに重視し、その学校に入試に合格して入学した時点において、すでにその学校や学友との共通項は存在するのですが、それ以外の違和感が大きすぎると後々苦労します。
たとえ東大に行けたとしても、中高6年間が楽しく感じられないと、その間に形成されるべき様々なものが形成されなかったり、いびつに形成されてしまったりして、後の人生に悪影響を与えてしまうように思います。
フィット感とか違和感とかは、あくまでも感覚の問題ですし、個人によって著しく異なるものなので、直観を重視すべきだと思います。
- 小学生の時は中学受験の勉強
- 中高時代は大学受験の勉強
- 大学に入ったら、早々に司法試験か医師国家試験の勉強、さもなくば紺のスーツを着てリクルート活動
- 人生と楽しいものとみなすか、辛いものとみなすか
- クラスメートを、仲良くすべき友だとみなすか、蹴落とすべきライバルだとみなすか
- 学園祭や部活に積極的に参加して、それを将来の社会生活に役立てるか、あるいはそういったものは、全て受験勉強の邪魔になるものだとみなすか
この時に刷り込まれた人生観が、その後の人生に大きく影響します。
この人生観が後で間違っていたと気づいた場合、修正は可能ですが、かなりの苦労を伴います。
若い頃には分からないかもしれませんが、どのような職業に就いたとしても、自分一人でできる仕事なんてありません。
年を取れば取るほど、社会的立場が上になればなるほど、人の力を借りないとできない仕事の割合が増えていく反面、抽象かつ曖昧な状況の中で即断即決を求められ、かつその決定がより多くの人に影響するようになっていくと思います。
中高時代こそが、まずは自分と似た価値観の仲間と社会生活を送ることで、地図なき道を歩むサバイバル術を学ぶ絶好の機会なのではないでしょうか。
親が子どもにできることなんて限られています。
馬を水飲み場には連れていけますが、馬に水を無理やり飲ませることはできません。
どのような環境を用意しても、それが有効活用できるか否かは結局子ども次第なのでしょうが、少しでもいい環境を用意できればと思います。