大昔の中学受験 | アラフィフ親父の戯言

アラフィフ親父の戯言

妻と高校生の娘の3人家族。20代と中高年で複数回転職。国立大学文系学部卒。仕事の人間関係と子どもの成績に頭を悩ませる、どこにでもいるアラフィフ親父です

首都圏とは違い、地方の中学受験は選択肢が限られています。

かつての私は、
「中学受験なんて、6年生になるまで全く考えていなかった」
より正確にいうと、
「試験を受けないと入れない中学があることを、6年生になるまで知らなかった」
有様でした。

中学受験を勧めてくれたのは、小学6年生の時の担任の先生です。

その第一の理由は、「勉強はできたけど運動はダメだった」ことです。

正確に言うと運動全てがダメだったわけではありません。なぜか、球技だけが全くできなかったのです。それを心配した両親が、私をスポーツ系の習いごとを転々とさせたり、専門家のところにも相談に行ったりしましたがダメでした。

今でも、スポーツは、登山や水泳とかはやりますけど、ボールをまともに投げることはできません。見た目には全然分からないことですし、自分でも理由は分かりません。おそらく一種の運動障害なのだと思います。

男の子の遊びといえば、当時は野球かソフトボール。田舎では、まだ野球の方がサッカーよりも人気があった時代です。 ボールが投げられなければ、他の子と一緒に遊ぶことなんてできません。もちろん、父ともキャッチボールなんてできません。

私は完全にインドアな子どもでした。近所の人たちは、私が家で勉強ばかりしている(だから学校の成績はいい)と思っていたようです。

公立中学に行ったら、勉強ができても運動ができなければ、いい内申点は期待できません。それは、私が上位の公立高校には行けないことを意味しています。

だから、担任の先生が中学受験を勧めてくれたわけです。

しかし、そんな理由だけで首を縦に振る父ではありません。住んでいたのは、公立志向が強い土地柄で、私の父も「軟弱な私学に行かせるよりは、公立で文武両道の教育を受けるべき」と思っていたようです。


中学受験を勧められたもう一つの理由、それは、「公立中学がとてつもなく荒れ始めた」ことでした。

隣の小学校区(中学校区は私の居住エリアと同じ)に暴力団事務所の支部ができてしまい、その関係者の子どもが(私が進学するばずだった)公立中学に通学し始めたのです。

校内を生徒がバイクで走り回る、中学生による恐喝やカツアゲがあちこちで報告されるようになるなど、その中学が急速に荒れ始めたこともあり、先生の方から、私立中への「避難」を勧めてくれたわけです。

これには、さすがに母が心配し始め、父も首を縦に振るしかありませんでした。
が、時はすでに6年の夏休み、しかもお盆を過ぎていました。こんな時期になって受け入れてくれる進学塾は、当時ですらほとんどありません。

唯一私を受け入れたくれた塾が、前年にできたばかりの、自称「四谷大塚提携塾」で、私の学年が第一期生でした。その塾に、6年生の8月下旬から通い始めました。
その塾は、「東京の『四谷大塚』とかいうすごい塾のテキストを使って授業を行う、というのが売りの塾でした。実際には、塾生が10〜20人くらいしかいない小規模塾だったんですけどね。でも、その塾での勉強は非常に楽しかったです。

その地域で私立中と言えば、事実上1校(仮にA校とします)しかありませんでした。自宅から自転車通学できる距離のA校に行くか、あるいは公立中に行くか、それ以外の選択肢は存在しないのも同然でした。

正確に言えば、(A校より若干偏差値が高いが)電車を乗り継いで通学に1時間以上かかるB校もありました。塾からはB校でも受かると言われていましたし、B校は母方祖父の出身校でもあったので、母は少しはB校も考えていたようですが、父に反対されてしまいました。

で、当時はA校とB校の試験日が同日だったこともあり、当たり前のようにA校を受験した次第です。

私も含め、その塾生のほぼ全員がA校に合格しました。しかも、その多くはA校でも成績が上位で、その後、東大・早慶・地元旧帝大(いずれも複数人)に進学しました。メンバーの結束は非常に固く、今でもたまに飲みに行ったりしています😀


これ、大昔に私が受験した入試問題です。

なぜか理科だけ残っていました。


 

やはり、今に比べたら簡単なんでしょうか。

おぼろげながら後半の物理と化学の問題が難しかったのを覚えています。おそらく、入試が終わった直後に塾に行って、先生と一緒に物理と化学の問題を解き直したものと思われますニコニコ