「受験少年院」の日々 | アラフィフ親父の戯言

アラフィフ親父の戯言

国立大学文系学部出身です。アラフィフで中高年転職しました。妻と中高一貫校に在学中の娘の3人家族です。

私は、ある地方の中高一貫校に通っていました。その学校はとても厳しく、朝の7時半から補習授業があり、毎日大量の宿題が出されました。

当時その学校では、宿題をやってこないと教師から体罰を受けるのも当たり前でした。中学の頃、私は、学校の勉強を一生懸命にやることが善だと信じ、必死に勉強し、上位成績をキープし続けてきました。

 

ところが高校に入ると成績が下がり始めました。特に数学の試験は、ちゃんと勉強しているにもかかわらず、試験になると手足が震え、頭が真っ白になって答案に何も書けない、なんてことが度々起こるようになりました。

教師たちの私を見る目が変わり、怒鳴られたり叩かれたりすることが多くなりました。

 

私は、成績上位層の友人グループに所属していましたが、成績が下がることでそのグループとも疎遠になり、クラスの中でも孤立してしまいました。学校にも行きたくなくなり、中学3年間は皆勤だったにもかかわらず、高校に入ると急に欠席が多くなりました。学校に行こうとすると嘔吐するようになり、行こうにも行けなくなってしまったのです。

 

そのことで、私の両親も学校から呼び出しを食らうようになりました。

学校では教師から、家では父から、怒鳴られたり叩かれたりする日々が続きました。時代も時代でしたし、また地域性もあったのだとは思いますが、嘔吐に関しては、学校でも家でも「気合が入っておらず、自分に甘えているからそんな風になるのだ」と言われるだけでした。

 

 

しかしながら、そんな状態にあっても、第一志望の大学に行きたい、という思いは変わりませんでした。

クラスメートの多くも予備校に通い始めていた時期(学校側は、予備校に行くと学校の勉強が疎かになるとの理由で予備校に行くことを禁止していたが、実際には半分以上の生徒がKSYのいずれかに通っていた)で、私もそうしようかとも思いましたが、学校の成績が下降している私が予備校に行くことを父に反対されてしまいました。

 

そんな中、高校一年の夏休みに旅行した際、宿泊先のユースホステルで東大の学生さんと偶然相部屋になり、夜遅くまで話をする機会に恵まれました。

その方は麻布高校の出身とのことでしたが、学校での受験指導はほとんどなく、自由な雰囲気の中、通信添削を主軸として受験勉強をしていたとのことでした。

インターネットもなかった時代、地方にいた私は、東大生の多くが受験時にやったことがあるというその通信添削の存在すら知りませんでした。開成や麻布の名前くらいは知っていましたが、そういった名門校の人たちは、自分よりも遥かに過酷な環境で受験勉強をしているのだと本気で信じていました。

ですから、彼から聞いた話は俄かには信じがたく、自らが置かれている環境との差に愕然としました。彼も、私の話を聞いて大変驚いていたようです。

この出会いがなければ、今の私はなかったと思います。

 

家に帰るや否や、その通信添削について調べましたが、予備校に通うよりはかなり廉価だということが分かりました。こうした費用面でのメリットを強調して何とか母を説得し、父には内緒で通信添削を始めることになりました。

 

高校二年になると、学校の定期テストの成績は相変わらずでしたが、試験範囲の決まっていない実力テスト(学校が全員に受けさせる業者模試等)の成績は上昇し、校内トップクラスの常連になりました。

しかし、定期テストと実力テストの差があまりにも大きすぎたため、教師たちからはますます目をつけられてしまいました。特に数学の教師からは、執拗に退学を迫られました。

教師の体罰は常態化し、殴られている間、幼い頃に祖父に教えられて暗誦していた般若心経を心の中でひたすら唱え続けていました。

教師からもクラスメートからも心を閉ざしていたため、学校では完全に浮いた存在になってしまいました。

 

ある日の学校の帰り道、私は不良グループに取り囲まれ、鞄を開けられ、「お前が○○大学目指すなんて生意気だ」と、中に入っていた通信添削の教材をビリビリに破かれてしまいました。

実は、私にそうするように不良グループを煽った黒幕が別にいたのですが、彼は表向きは勉強も運動もできる優等生で、教師受けも良かったため、私は泣き寝入りするしかありませんでした。

 

その後も、その黒幕+不良グループによるイジメがエスカレートし、学校の帰り道に取り囲まれ、志望校のランクを落とすよう脅迫されるようなことが続きました。

 

それ以外にも、クラスには、いわゆる模範生タイプの生徒がいました。成績が下がる前の私がそうであったように、彼らは、学校の勉強をすることこそが正しく、それ以外の勉強方法で成績を上げることは人の道に反していると本気で信じているようでした。

私は、不良グループからのみならず、そうした「模範生」からも白い目で見られるようになりました。「お前みたいな勉強をやれば誰でも東大に受かるだろうけど、それは人として間違っている」などと言われたこともあります。


あることないことを教師に告げ口するという意味においては、不良グループよりもタチが悪かったと言えるかもしれません。 

結局彼らの多くは大学受験は上手く行きませんでした。彼らは、自分たちこそが人として正しく、「邪道」な方法で大学に合格した私は人として間違っているなどと、今でも思っているのでしょうか。 洗脳され、大学受験が上手く行かなかった彼らも被害者だと思います。 というか、教師がこのように生徒間の対立を煽っていた自体、今思い出しても悲しくなります。

 

そんなある日、私は授業を受けるのが耐えられなくなり、保健室に行くと偽り、図書館の倉庫で本を読んでいました。

すると、奥の方で、(私をいじめていたのとは)別の不良グループが煙草を吸っていました。

なぜか、その不良グループとは不思議と話が合いました。その後、暗黙の了解で、私が彼らに勉強を教える代わりに、彼らが(私をいじめていた)不良グループから身を守ってくれるようになりました。

 

高校三年になると、私はもっと自分の勉強の時間を増やしたかったのですが、学校の締め付けが更に厳しくなり、通信添削も学校の勉強もどちらも中途半端になってしまい、成績は下降しました。

進路指導の際、母のいる前で、担任の教師が「おたくの息子さんはどこにも受からない。ここまで性格がひねくれていると、浪人したってどこの大学にも受からないだろうし、受かってもろくな大人にならない」と言っていたのを今でも覚えています。

今から思えば、私も憎たらしい生徒だったんでしょうね。

精神のバランスを崩し、十分な勉強時間が確保できなくなり、結局私は一浪しました。

 

浪人時代は予備校に通いましたが、高校時代に比べれば天国でした。

変なしがらみは一切なく、勉強さえやっていればよかったのですから。

友人もたくさんできました。

今でも付き合いがあるのは、中高六年間のクラスメートよりも、一緒に浪人した仲間の方が多いです。

第一志望校も併願校も全て合格しました。

 

私の経験が例外的に偏ったケースだというのは、頭では分かっているつもりです。

  • 中学時代に、あまりにも学校を妄信しすぎた
  • その反動で、高校に入ると、学校の全てを否定してしまい、何も信じられなくなった

当時の私は、学校に対する怒りの感情に溢れていましたが、今になって思えば、私に情報取捨選択能力がなかったということです。



また、私にとってこの中高6年間が、決して無駄だったとは思いません。人には勧ませんが、私の人生において必要な経験だったからこそ、このようなプログラムがたまたま用意されていただけだと考えています。