JR藤森(ジェイアールふじのもり) ('22.6.11)
引き続き、藤森神社。
八幡宮や大将軍社のさらに後ろに、第二あじさい苑があった。
(第一あじさい苑の入場料で入れる)
入口に建つ武者像。
さっき宝物殿で見た、重要文化財の鎧らしきものを身に着けている。
早良親王か? と思ったけど、親王に限らず、藤森祭の武者行列に参加する武者を象徴した「神鎧像」だとか。
本殿の後ろに並ぶ摂社の裏手が、アジサイで埋め尽くされていた。
第二あじさい苑の花は、第一より花期が遅いのか、やや小ぶりの花が多かった。
でも、歴史ある建物と花の組み合わせが良い。
藤森神社が、こんなにいろいろな伝説のある神社だということを、今まで全く知らなかった。
神功皇后、早良親王から、石川五右衛門、近藤勇まで。
最後に西門へ向かい、カヤ(榧)の木を見上げる。
特に何か由来が伝わっている木ではないが、もしかしたら、小野小町と深草少将の伝説に関係があるかもしれない。
深草少将の伝説については、後で詳しく書くつもりだが、小野小町に惚れ込んだ深草少将は、小町に言われた通り、彼女の家の前まで百夜通い続ける。
だが100日目(99日目という説もあり)が酷い悪天候で、彼は小町の家までたどり着く前に息絶えてしまった。
(大雨で橋ごと流された説と、大雪で凍死した説あり)
深草少将は小野小町の家に入れなかったので、訪れた証として、家の前にカヤの実を1個ずつ置いていった(これもカヤ説とシャクヤク説があるが)。
少将の死後、小町が少将を偲んでカヤの実をまいた。
現在、その実が芽を出して育ったと伝わる「小町カヤ」が数本ある。
藤森神社のカヤの木にはそういう伝説はないが、場所が場所だけに、これも小町榧だとしても不思議ではない。
(そもそも、深草少将が通った小町の家自体が京都じゃなくて、小町の地元の秋田だったという説や、熊本だった説すらあるのだが)
(そもそも深草少将なる人物自体が、架空の人物と考えてほぼ間違いないらしいのだが)
拝殿の近くまで戻る。毎度こりずに勝運御守をお受けする。
今、私の家には、勝守と、縁結守が、いったい何十個あるんだろう?
小雨がぱらつき始めた。南門に戻り、さらに西を目指そう。
藤森に来た第一の目的は別にあるのだ。
墨染
京阪の墨染駅の前の踏切を渡る。
方向別に入口が分かれる小さな駅。
小さな橋を渡る。下を流れる川は、琵琶湖疏水らしい。
さらに西へ進んで、墨染寺(ぼくせんじ)に参拝。
日蓮さんの御像が立派。
なぜか足元に狸の置物。
太政大臣を務め、最初の関白となった藤原基経が、891年(寛平3年)に死去し、深草の貞観寺にまつられた(※墓は宇治の木幡にある)際、友人の上野岑雄(かみつけ/かんつけのみねお)がその死を悼み、
「深草の野辺の桜し心あらば今年ばかりは墨染に咲け」
と詠んだ。
するとその年、貞観寺の桜は薄墨色に咲いたという。
藤原基経といえば、陽成天皇を退位に追い込んだり、宇多天皇即位時に「阿衡事件」(阿衡(あこう)という職に任じられるが、これを単なる名誉職と解釈して怒り、半年間も仕事を放棄した)を起こしたりするなど、朝廷で絶大な権力を持っていた。
そんな基経にも、その死を悲しんでこのような歌を詠む、親しい友人がいたということに、人間性が感じられて、ちょっとほっこりする。
貞観寺は平安時代末頃から衰退し、応仁の乱の被害で廃絶したらしい。
桃山時代になって、豊臣秀吉が土地を寄進し、増長院日秀が「墨染桜寺」として再興した。
秀吉の姉で秀次の母の日秀尼が、秀次とその一族の死去後、日蓮宗に帰依したことも関係しているようだ。
「桜寺」と書かれた扁額がある。
藤原基経、豊臣秀吉、豊臣秀次と、なぜか関白に縁のあるお寺だ。
小さな木の前に、「四代目 墨染桜」と書かれた立て札。
どうも数年前に代替わりしたばかりらしい。
現在、墨染寺にある桜の木の多くはソメイヨシノ。
とはいえ、狭い境内を埋め尽くすように、桜の枝が広がる。
花の咲く時期はさぞかしきれいだろう。
京都観光Navi(京都市観光協会) 京都府観光連盟
JRおでかけネット(JR西日本) 京都市交通局
※旅のマップはこちら。
※これ以前の「日本縦断ゲーセン紀行」はこちら。
・第239回 アジサイと刀剣とモテない男子(JR藤森、墨染、醍醐)
・第238回 崇徳天皇と安倍晴明と菅原道真(今出川、北野天満宮、北野白梅町、円町→京都)
・第237回以前
スマホ用無料ゲームを作っています。
「脱出ゲーム 新入社員・江須恵(えすけい) 例のプールに閉じ込められた!」
「芸能人 真澄田竜子 - 霧笛があの娘を呼んでいる」