蔦屋重三郎と若き芸術家たち 江戸文化の仕掛け人 | geezenstacの森

geezenstacの森

音楽に映画たまに美術、そして読書三昧のブログです

江戸文化の仕掛け人

蔦屋重三郎と若き芸術家たち

 

編者:濱田信義

出版:玄光社

 

 

 NHKの大河ドラマは今までまともに見たことはありません。まあ、日曜の夜8時からという時間帯が悪いんでしょうかねぇ。それと歴史上の武士階級の政争の物語が多いことも興味がないことの一つです。それが今年は歴史が舞台という中で庶民の目線をドラマの中心に据えていることと、その主人公が日本の出版文化の発展に寄与した「蔦屋重三郎」であるということが鑑賞の引き金になりました。そして、今年はそれもあり、出版界がこぞってこの蔦屋重三郎を担ぎ上げて一大ブームを起こそうと昨年末から関連本を出版しています。まあ、この本もそのブームに乗って発売された一冊なのでしょうが、なかなかうまくまとめています。とにかく図版が豊富で浮世絵だけでなく黄表紙本も多く取り上げているところと、タイトル通り彼のブレーンとして活躍した当時の最先端の芸術家たちを取り上げているところが気に入っています。

 

 ここでは政治的視点をあまり強調することなく純粋に主人公・蔦屋重三郎がプロデュースした江戸のクリエイターたちの芸術作品をとおして、その人物像を紹介する美術入門書となっています。蔦屋重三郎とはどのような人物なのか、また喜多川歌麿、東洲斎写楽などの浮世絵、山東京伝、恋川春町、十返舎一九、滝沢馬琴などの戯作、大田南畝などの狂歌を仕掛け江戸に流行を生み出した仕事術に迫ります。蔦屋重三郎が出版のプロデューサーとしての側面からどのような仕事をしたのかということに重点を置いて制作されています。章立ては以下のようになっています。


■第一章 蔦屋重三郎と芸術家たちの仕事
・歌麿の美人大首絵-美人画のカリスマ・喜多川歌麿
・東洲斎写楽の役者絵-謎の絵師登場
・吉原美の饗宴-蔦重を育てた吉原の世界

■第二章 蔦屋重三郎が出会った浮世絵師たち
・鳥居清長/・一筆斎文調/・勝川春章/・北尾重政/・北尾政演/・窪俊満/・栄松斎長喜/・鍬形蕙斎/・喜多川歌麿
・歌麿の狂歌絵本
・葛飾北斎
・東洲斎写楽

■第三章 蔦屋重三郎・出版プロデューサーの仕事
・蔦屋重三郎プロフィール
・蔦屋重三郎と交遊したブレーンたち
・蔦屋重三郎 出版アンソロジー

【コラム】
・蔦屋重三郎と吉原の風景
・浮世絵工房 錦絵を創る
・絵双紙屋の店頭
・江戸文化の創造者たち-戯作者・狂歌師・絵師登場
・戸の文化人とネットワーク

・戯作者・狂歌師・浮世絵師たちの略歴
・蔦屋重三郎 年譜
・耕書堂・蔦屋重三郎の主要出版目録
・図版データ一覧・作品解説
・参考文献画像デ ータ提供・資料掲載協力 

 

 蔦屋重三郎は1750(寛延3)年、江戸の新吉原に生まれています。そして“本屋の重さん”として頭角を現すのは24~25歳頃です。1774(安永3)年刊の『吉原細見(よしわらさいけん)』に改め・卸として蔦屋重三郎の名前が登場。このときはまだ、親戚の家の軒先を借りての商売です。

 

 吉原細見は幕府公認の遊郭だった吉原のガイドブックのようなものです。「改め」というのはどこの遊郭にどんな遊女がいて、料金はいくらかなどの情報を収集して改訂する編集作業です。「卸」というのは小売りのことで、吉原生まれの本屋の重さん、またの呼び名を蔦重(つたじゅう)は、きっと遊郭に顔が利いたのでしょう。そうはいってもメールも電話もない時代、地道に足を使う仕事だったに違いありません。

 

 蔦屋重三郎の最初の出版物とされるのが、1774(安永3)年刊の『一目千本』。これは吉原の遊女を当時流行の挿花にたとえた評判記で、妓楼がお得意先などに配るような販促物だったと思われます。遊郭は主に生活に困って売られた娘たちの苦界でしたが、江戸っ子たちは家族のために奉公する遊女を偏った目で見るようなことはなく、年季の明けた彼女らをむしろ讃えたといいます。トップクラスの遊女ともなれば財政界の大物と対等にやりとりをするような教養もあり、人々が一目会いたいと憧れるスターのような存在でした。

 

吉原細見

 

 この蔦屋重三郎は吉原をテーマにした本を次々と手掛け、遊女たちを知的で上品にプロデュース。江戸の粋なエンターテインメントとして宣伝をしかけていきます。

 

本に登場する蔦屋重三郎

 

当時は狂歌ブームでした。

 

当時の本屋の様子、いわゆる製造直売所です

 

歌麿は美人画だけでなく生物画も得意でした

 

今では「ポッピンを吹く女」と言われますが以前は「ビードロを吹く女」と言いました

 

 

 

 東洲斎写楽の代表作ですが活動期間はわずか10ヶ月、こんなに活動期間が短かった絵師はいません。今では一応、阿波徳島藩蜂須賀家お抱えの能役者、斎藤十郎兵衛ということになっていますが、たった10ヶ月で壊死を止めるということがあるでしょうか?ということで「べらぼう」で描かれた合作という可能性は捨てきれません。絵の質も初期から末期までに随分変わっています。

 

 

 初期は「東洲斎写楽」と画号が入っていますが、後期になるとただの「写楽」の画号に変化しています。

 

 蔦屋重三郎は48歳の寛政9年に脚気患いで亡くなっています。