夏目漱石とクラシック音楽
音楽を楽しむ会2025/11
明治期の文豪は大多数がクラシック音楽を愛していました。彼らの交友関係がそれらの音楽を醸成していたとも言えます。この8月に碧南の「藤井達吉現代美術館」で開催されていた「橋口五葉のデザイン世界一夏目漱石本の装幀から 新板画へー」は夏目漱石と深い関係があり、その漱石の初期の出版峰はこの橋口五葉がデザインしていました。
まだ駆け出しの五葉のモダンなセンスに漱石が惚れたのでしょう。後期の作品となる「行人」までその関係が続いています。東京大学で寺田寅彦とは旧知の仲で音楽界にもよく出かけていたようです。漱石は1900年から1903年までイギリスに留学していましたが、その時に大いにクラシック音楽に感化されたようです。そのころイギリスで活躍していたソプラノ歌手のアデリーナ・パッティは多分聞いているだろうという事で最初に取り上げられました。日本では「埴生の宿」として親しまれている曲です。
次にかけられたのも当時のSPでバックハウスの演奏する「調子のよい鍛冶屋」でした。ラッパ吹込みの最初期の録音です。
「シャンパン・ギャロップ」は北欧のシュトラウスといわれた論日の作品です。こういう作品は今ではほとんど聞かれなくなっていますが当時は軽音楽としてよく取り上げられていたのでしょう。こういう作品には当時は単独で取り上げられていた「リムスキー・コルサコフの「インドの歌」や次のグルックの曲にも当てはまります。
1906念になると東京音楽学校で一般向けのコンサートが開始されています。その10月29日のコンサートの最初にはグルック/歌劇「アウリスのイフゲニィア」序曲が演奏されています。漱石は寺田虎彦とこのコンサートに出かけているようです。
このコンサートではワーグナーの「ローエングリーン」第1幕の前奏曲も演奏されています。
そうせきは1906年に「野分」という作品を書いていますが、その中でゲーゼのピアノ三重奏曲を取り上げています。このように作品の中には自身の体験した音楽を取り混ぜて描写しているようです。ニルス・ウィルヘルム・ゲーゼ(またはガーゼ、ガーデ、Niels Wilhelm Gade, 1817年2月22日 - 1890年12月21日)は、デンマークの作曲家・指揮者・音楽教師。北欧諸国の音楽界の近代化に貢献したひとで、メンデルスゾーンとも親交があり、没後はゲヴァントハウス管の指揮者の地位を継承しています。。
この「タンホイザー行進曲」も作品に登場するものですが、ちょっと脚色があるようです。
「
アイネ・クライネ・ナハトムジーク」はもともとは弦楽四重奏のために作曲された作品らしく、プロ・アルテ四重奏団(1912年創立)の演奏で取り上げられました。戦前の録音ですが、現在も活躍している四重奏団です。この漱石の時代山田耕作はチェロを弾いていました。そして、この曲も弦楽合奏時はこのチェロの旋律はそのままコントラバスも同じメロディを弾くそうです。
1908念、東京音楽大学でチェロを教えていたヘルクマイスターが1908年に帰国します。その送別演奏会でこのサン・サーンスのチェロ協奏曲第1番が演奏されたようです。この曲は1872年に作曲されていますから、当時はバリバリの現代曲でした。で、サン・サーンスも1921年まで存命でした。ここでは46歳の若さで亡くなったデュプレの演奏が取り上げられました。最近ではあまり名前が出てきませんが今年はデュプレの生誕80周年です。ここで指揮をしているのは当時の旦那のバレンボイムです。
漱石は自宅にも蓄音機を所有していましたから小品はその蓄音機で塩化そうを楽しんだのでしょう。そういうものの一つにマスネのエレジーも含まれていたことでしょう。
次のシューマンの「流浪の民」は、東京音楽学校のメンバーで録音されたものが存在します。訳詩は「石黒小三郎」で盟約です。藤山一郎の名前が見えますが、当時はクラシックを歌っていました。
スッペのオペレッタ「ボッカチオ」は1879年2月1日にウィーンのカール劇場)で初演されています。日本では1915年に帝国劇場で小林愛雄の翻訳台本により翻訳上演されくした。む漱石が無くなるのが1916年12月でしたからぎりぎり上演に間に合っています。ここで、歌う三浦環のアリアもそうした流行の中で歌われたものでしょう。
一般にはオペレッタという事で後に浅草オペラで頻繁に上演されています。小生もこの曲里存在はエノケンの歌で親しみました。
コンサートの最後はコルトーの演奏するショパンの「幻想即興曲」で閉められました。
電機では夏目漱石は文豪として紹介はされますが、なかなかこういうクラシック音楽とのかかわりは分からないものです。こういう切り口の夏目漱石はなかなか楽しいものです。

