バーンスタイン
最後のコンサート
曲目/
ベンジャミン・ブリテン/歌劇「ピーター・グライムズ」 – 4つの海の間奏曲 Op. 33a
1.(03:42) No. 1. Dawn
2.(04:01) No. 2. Sunday Morning
3.(05:01) No. 3. Moonlight
4.(05:26) No. 4. Storm
ベートーヴェン:交響曲第7番イ長調Op.92
5.(16:19) I. Poco sostenuto – Vivace
6.(09:48) II. Allegretto
7.(10:26) III. Presto, assai meno presto
8.(08:39) IV. Allegro con brio
ボストン交響楽団 – Boston Symphony Orchestra
レナード・バーンスタイン – Leonard Bernstein (指揮)
録音: 19 August 1990, Tanglewood Music Center, Lenox, United States
P:ケアリソン・エームス、リチャードL・カイエ
E:ルイス・デ・ラ・フェンテ
DGG 4791047-16
バーンスタインの経歴はボストンで始まり、ボストンで終わりました。バーンスタインは幼少時代から大学(ハーバード)にかけてボストンに育ち、BSOと密接な関係を保った割には、BSOとの録音は数えるほどしかありません。彼が生まれて初めて生で聴いたコンサートがアーサー・フィードラー指揮のボストンポップス(曲は「ボレロ」だったようです)で、生まれて初めて指揮をしたオーケストラもボストン・ポップスでした。BSOの指揮者だったクーセヴィツキーに見いだされ、生涯最後のコンサートも BSO、と音楽家としてのキャリヤをBSOと共に終えた、ということができると思います。そして、この録音がバーンスタインの最後のコンサートと言われ、1990年8月19日にタングルウッドで行われたボストン交響楽団との野外コンサートでした。しかも、この演奏をDGのスタッフが録音していたというのも奇跡に近いものがあります。
曲はブリテンのオペラ「ピーター・グライムズ」から「4つの海の間奏曲」、そしてベートーヴェンの「交響曲第7番」で、このベートーヴェンの7番が、記録に残る5種類の録音の中でも異常に遅いテンポで演奏されているという事です。ちなみに5種類の録音は以下のようになっています。ボストンと2種類、ニューヨークフィルと2種類、そしてウィーンフィルとの録音です。
1 | 2 | 3 | 4 | |
NYP-1958 | 12:27 | 9:43 | 8:23 | 7:27 |
NYP-1964 | 14:31 | 9:06 | 9:27 | 9:00 |
VPO | 14:15 | 8:46 | 8:59 | 7:04 |
BSO | 16:19 | 9:48 | 10:26 | 8:40 |
BSO-1957 | 11:32 | 7:59 | 6:48 | 6:37 |
カラヤンが亡くなったのは1989/7/27で、バーンスタインは1990/10/14に亡くなっています。何もカラヤンの跡を追わなくてもよかったのにと今更ながら思われます。バーンスタインは1990年のパシフィック音楽祭を早々と切り上げ、その後のロンドン交響楽団との演奏もキャンセルして帰国しています。奇しくもプログラムはこの最後の演奏会と同じプログラムでした。
前半のブリテンはキレキレのテンポで洗練された近代的な響きを楽しませてくれます。日本からの帰国以降も体調はあまり良くなかったようで、新しいプログラムには挑戦していません。ベビースモーカーであったバーンスタインは、自らが肺癌であった事を悟っていたのでしょう。上の音楽祭でのメッセージも、これからは指揮でも作曲でもなく、残された時間を若者を育てる事に注力していくと語っています。
当日ボストンは、8月だというのに冷たい土砂降りの雨で、長袖トレーナーでも寒いぐらいだったようです。タングルウッドも似たような天気だったらしく、演奏会の途 中でバーンスタインは腕の振りも止まってしまい、3楽章ではハンカチを取り出して咳き込み、みるからに消耗していたらしい。(同年の「音楽の友」バーンス タイン追悼特集記事にこの演奏会の写真とレポートが載っていました)この演奏会、ボストンの放送局の TV放送で、4楽章のフィナーレの部分だけ、すこし放映したのを見ることができます。確かに腕は胸のあたりまでしか上がらず、客席からすごい拍手がわいた後 もバーンスタインは本当に疲れ切った顔をしていました。文字通り命がけで最後までやった、という感じだったのでしょう。彼自身、これが最後だという予感があったのでしょうか?その演奏の姿が、一部だけ公開されていてYouTubeで見る事ができます。それが下の映像です。
敢えてのテンポ。この演奏は本当に生々しいライブで、一発どりの恐ろしさが記録されています。それまでのライブと違いリハでの修正の音源は使われていません・そのため、第1楽章の冒頭から金管がバランスを欠いていますし、揃っていません。この映像を観てこの演奏を聴くとまた印象がガラリと変わります。これが最後かもしれない。信頼するボストン交響楽団のメンバーと、自分を育ててくれたタングルウッドの地の聴衆と共に、ベートーヴェンをギリギリまで慈しむように演奏しているようにしか聴こえません。その気持ちはオーケストラも聴衆も一体だったのではないでしょうか。終演後の喝采からもその日のタングルウッドの熱量が生々しく伝わってきます。
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NYP-1958 | 12:27 | 9:43 | 8:23 | 7:27 |
NYP-1964 | 14:31 | 9:06 | 9:27 | 9:00 |
VPO | 14:15 | 8:46 | 8:59 | 7:04 |
BSO | 16:19 | 9:48 | 10:26 | 8:40 |
BSO-1957 | 11:32 | 7:59 | 6:48 | 6:37 |
バーンスタインは、ピアノを習い始め夢中になって行きプロの音楽家を夢見るようになりましたが、父親は猛反対だったそうです。
それでもハーバード大学の音楽専攻課程で、指揮と作曲を学び1939年に卒業します。翌年、タングルウッドの音楽家のためのサマースクールに参加しました。ここで当時ボストン交響楽団の音楽監督を務めていたセルゲイ・クーセヴィツキ―と出会い、師事することになったのです。
クーセヴィツキ―に気に入られたバーンスタインは、助手を務めながら作曲家になるか指揮者になるか模索している時にクーセヴィツキ―の世話で1943年にニューヨーク・フィルのアシスタント・コンダクターとなりました。直訳すれば副指揮者です。といっても雑用係で、オケを指揮する機会もリハーサルの下準備を時くらいで当然コンサートを振ることもありませんでした。この辺りのことを2023年に公開された「マエストロ・その音楽と愛と」では描いていました。一部の映画館では公開されたようですが、小生はNetflixで鑑賞しました。映画はここから指揮者デビューするまでを描いています。ただ、タイトルのように妻となるフェリシアとの恋愛模様をメインに据えていますから電気映画として見ると少々かったるい部分もあります。
しかし、チャンスが巡ってきた1943年11月14日のこと、その日の指揮者ブルーノ・ワルターが急病となり急遽副指揮者のバーンスタインが指揮することになったのです。これがラジオで放送され、無名の青年が一躍全米に知れ渡ったことになったのです。つまり、タングルウッドはバーンスタインが著名な音楽家になるきっかけになった場所だったと思います。そして結局最後のコンサートとなった若者を教育する場のタングルウッドでの1990年8月19日の演奏はなにか因縁めいているとも言えます。