司馬江漢 東海道五十三次画帖 | geezenstacの森

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司馬江漢 東海道五十三次画帖

広重「五十三次」には元絵があった

 

監修:對中如雲

出版:ワイズ出版

 

 

 平成3年に発見された司馬江漢の「東海道五十三次画帖」は、本当に「広重五十三次」の原画なのか。2つの「五十三次画」を、同じ場所を描いたものを1組として1ページに上下に並べ、検証する。図はカラー。---データベース---

 

 司馬江漢の「東海道五十三次画帖」については以前にも取り上げています。同じ對中如雲氏が著した「広重「東海道五十三次」の秘密」という紳士夜番の本でした。

 

 

 そちらでは代表的な作品しか取り上げられていませんでしたが、今回の書籍は五十三次の全てが安藤広重と司馬江漢の作品が同じページで比べるとができます。二人の作品の唯一の違いは広重が今日への登り順で描いているのに対して、司馬江漢は今日から江戸への下り順に描いていることでしょう。

 

司馬江漢

 

 司馬江漢(1747-1818)は蘭学者として、天文学、世界地理などの著作が多く残されています。交際が広く全盛期には多くの大名を友人に持っていたほどです。「口が悪い」ことで有名で、また「はったり屋」として評判が悪いのですが、老中松平定信の政策を公然非難したがお咎めがなかったことから「御落胤」説もあり、全国をくまなく何度も旅行していることから「幕府の隠密」説まであるという奇人でもあります。また初期には浮世絵師の鈴木晴信に入門し、鈴木治重の名で作品も残しています。


 また、「江漢西遊日記」の旅(1788)では東海道をのんびり旅し、長崎のオランダ出島を訪ねています。浮世絵だけに飽き足らず、画家としての江漢は、洋画の先駆者で銅板画、油絵、西洋画の遠近法を阿蘭陀の本などで学び工夫してマスターもしています。


 江漢の生涯の画風は、浮世絵-南画(中国画)-銅版画-西洋画(油絵)とめまぐるしく変わっています。1807年には西洋画(油絵?)を止めることを宣言し、1812年には京都に滞在して「日本画、南画、洋画を融和した画風」で富士山の絵を沢山描きます。後の横山大観につながるような透明感のある富士山として残っています。この年に今日から江戸に降った折にこれらの風景を画帳にまとめたものが東海道五十三次画帖として残されます。

 

 この1812年暮れに江戸に戻った江漢は金銭問題に巻き込まれ、1813年の六月には「何もかもいやになった」として「絵画の頒布会」もふくめて一切の活動から引退してしまいます。その後1818年の死去まで二度と世に出ることはなく、1813以降の絵画作品は(著作の挿し絵以外)知られていません。

 

 この本の体裁です。

 

 司馬江漢は1912年の作、広重は1934年作です。そして、三島においては江漢は夜景を広重は朝靄の情景、沼津も夕景と日景の違いがあります。鳥居と灯籠の位置関係は江漢の方が正確です。

 

 まあ1番の違いは最初の京都と熱田でしょう。ここのデザインは全く違います。

 

 当時は御所を描くことは御法度でした。ということで、画帖ということで江漢は「御所」を描いていますが、広重は「三条大橋」を描いています。ただ、この広重の三条大木氏は木製の橋として描かれていますが、実際は木の橋ではなく当時すでに石製の端でした。これは豊臣秀吉が1589年に架けさせたものです。つまりは広重が八朔御馬進献に同行し京へ上洛したしたとの説を疑問視する要因はこういうところにもあります。

 

 もう一つ、熱田神宮も広重は描いていません。五十三次を描いた当時、広重は常火消しという幕府の役人でしたから熱田神宮を描くことは御法度だと知っていたのは当然で馬追の神事で誤魔化しています。ただ、この江漢の絵も八代の形から伊勢神宮の玉串門を描いている可能性も指摘されています。尾張名所図会では下のように描かれていて該当する場所がありません。

 

 

 発見された画帖は蛇腹条のもので上下2巻になっていたそうです。

 

 

 

 

 

この原本は伊豆高原にある崔如琢美術館(さいじょたく)で昨年公開されました。