発掘!!1974-5年の コンサートパンフレット4-2
ヨセフスークの初来日は、1959年でした。来日演奏家としては早かったですね。その後トリオとして来日したりしていましたので、わが国の音楽愛好家にはなじみ深い演奏家でした。このLINE日は1974年です。曲目も、ビバルディ、ベートーベンドヴォルザーク、スーク、ヤナーチェクスメタナと多種多彩です。このコンサートのピアノ伴奏は、小林仁が勤めていました。まぁ、この時代では、卓越した伴奏者で色々なアーティスト理伴奏を務めていました。
ワイセンベルクは1969年の初来日からほぼ2年おきに来日をしていました。このリサイタルは1973年のものと思われます。カラヤンとの共演で一大人気スターになったワイセンベルクでした。面白いことにグラモフォンでは、カラヤンはベートーベンのピアノ協奏曲全集は残していません。EMIでベルリンフィルと共演したこのワイセンベルクのものが唯一です。チャイコフスキーのピアノ協奏曲第1番は大変ブームになりましたが、小生はあまり感動しませんでした。ただこのベートーベンのピアノ協奏曲はどこかしら引かれるところがあり、今でも愛聴をしています。もう亡くなってかなり経ちますが、先年、黒柳徹子の愛した人物だと言うことがわかりより親しみを覚えています。
下は1977年にカラヤンと共に来日して演奏した「皇帝」です。
このチラシではダニー・シャフランと表記されていますが、wikiではダニイル・シャフランと表記されています。このチラシは全く記憶がありませんし、コンサートをはー聞いた記憶もありません。録音もほぼメロディア敷かなかったようで大手メジャーからはほとんど出ていないようです。オーケストラとの共演も少なかったのかドヴォルザークのチェロコンもマリス・ヤンソンスとのライブがあるだけです。ただ、デビュー当時はロストロポーヴィチの最大のライバルであったようです。これは1974年の来日の折りのチラシです。シャフランはこの2年後にも来日しています。
そのシャフランがネーメ・ヤルヴィ/エストニアOと共演したドヴォルザークです。
さて、ここからは名フィルです。この70年代は定期はほぼ2ヶ月に1回というペースでした。元はともかく、管の出来はイマイチで、特にホルンはいつもヒヤヒヤしながら聴いていました。それもあってか、コンサートはソリストに有名どころを引っ張ってきてプログラムをくんでいました。この頃はアルバイトで定期的に収入がありましたからなんとかコンサートに出かけることができていました。この第21回は1973年の11月24日です。海野氏のモーツァルトはほとんど記憶にありませんが、最後のフランクは当時としては稀に見る名演で記憶に残っています。
明けて1974年の2月定期です。こちらはソリストに浦川宣也死を向かえて荒谷俊治氏がタクトをとっています。それにしてもこの頃は全て名曲路線ですなぁ。まあ、そのおかげでベーシックな曲を生で聴けたわけですけどね。
第23回は珍しくソリストに来日アーティストが登場していました。ラファエル・オロスコはスペイン出身のピアニストで、ここで演奏されているラフマニノフを得意としていました。フィリップスに録音がかなりあります。1996年にエイズで亡くなっています。
ゆはり、残っているのはラフマニノフを取り上げたものが多いようです。下はこの演奏会でも披露しているラフマニノフの2番です。バックはアルド・チェッカート/RAI交響楽団です。
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続いての演奏会はむまたまた新谷俊治氏が登場して小松孝文氏をソリストに迎えたモーツァルトのクラリネット協奏曲が演奏されています。この小松氏は春日井生まれの地元のアーティストでこの当時は名フィルの主席クラリネット奏者でした。
名フィルはポップスにも力を入れていました。今はいないようですがボブ佐久間氏がポップスコンサートを率いていました。この当時はサマー・コンサートと称して中村八大氏を指揮者に迎えて下のようなコンサートを行なっていました。出演者を見るとピアノに羽田健太郎氏、リズムセクションにはジャズ畑のアーティストを配してのコンサートでした。なかなか楽しいコンサートだったようで第二部ではビアの協奏曲’74と題して米国、中国、ソ連という切り口で演奏しています。注目は客演でなんと赤塚不二夫氏の名前が上がっています。一体どの場面で赤塚氏が登場したんでしょう。ネットを調べても事故のコンサートの情報はありませんでした。
続きます。