レコード芸術 1973年2月号 6 | geezenstacの森

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レコード芸術 

1973年2月号

 6

 

 この頃のレコード芸術はインターネットもない時代ですから音楽界の情報はほとんどこの雑誌にニュースソースを頼っていました。この号でも許ぅみ深い記事が目白押しで掲載されています。次の記事は指揮者が指揮以外の余儀を披露する記事です。まあ、ソロする指揮者は付け足しみたいなもんですがね。下の写真はクーベリックが当時常任を務めていたバイエルン放送交響楽団の1972年11月11日に開催されたコンサートで披露されたバッハの4台のチェンバロのための協奏曲イ短調BWV.1065のリハーサルのスナップのようです。ここでピアノを演奏しているのはルドルフ・ケンペ、ウォルフガング・サヴァリッシュ、フリッツ・リーガー、そしてラファエル・クーベリックです。

 

 

 この4人の登場はシークレットだったらしく、この日コンサートを聴きにきた人はさぞかしびっくりしたことでしょう。何しろサヴァリッシュはバイエルン国立歌劇場の音楽監督、ケンぺはミュンヘンフィルの音楽監督、リーガーはケンぺに席を譲っていましたが1973年からはシドニー響の主席指揮者に就任予定でありました。よくまぁ、スケジュールが調整できたものです。

 

 

 この記事では写真は一部の識者しか掲載されていませんが、ベルリンフィルでのミトロプーロスの逸話やロンドン響のブレヴィンのジャズとクラシックの両方の曲をワンステージで演奏したことなども取り上げられています。今ではライブ音源も出ていますが、メータはロンドンでバレンボイムやズーカーマンらと組んでコントラバスを弾いていました。この当時はバレンボイムが指揮にも進出していたことで写真が取り上げられていますが、マゼールは得意のヴァイオリンでモーツァルトを録音していますし、1970年に亡くなったバルビローリも毎年のように夏のフェスで室内アンサンブルに混じってチェロを弾いていたようです。

 

 

 この当時、指揮に色気を見せていたのはダヴィッド・オイストラフ、その他にはメニューインなども指揮者としてかなりの録音を残していますし、チェリストのロストロポーヴィチ、モーリス・ジャンドロン、ポール・トゥルトリエ、ピアニストのゲザ・アンダ、フィリップ・アントルモンもこの頃から指揮活動をしています。名前は上がっていませんが、アシュケナージもこの頃から指揮し始めています。

 

 

 余技の域を超えていたのはバーンスタインでしょう。コンサートでも、ピアノの弾きふりをたびたび披露していましたからねぇ。

 

 

 ということで、バーンスタインのもう一つの記事に繋がります。指揮者という側面でも一流ですが、作曲家という一面も忘れてはいけません。彼は交響曲を3曲も書いていますし、自ら録音もしています。さらにはミュージカル作品、オペラにミサ曲まで書いています。この当時は最新作のバレエ音楽「デバック」を発表していますし、オペラでは「タヒチ島事件」も発表していました。

 

 

 この記事ではバーンスタインを「キャンディード」の改訂版をリリースしたことにあわせて書かれたようで、彼を20世紀のオッヘンバックと祭り上げています。

 

 

 上の記事ではこのズーカーマンは登場していませんが、彼もまたこの頃から指揮活動を開始しています。一時はセント・ポール室内管弦楽団で音楽監督なども務めており、ダラス交響楽団やイギリス室内管にもしばしば登場しています。

 

 

 そこでCBSソニーの広告でするトップはグレン・グールドです。ヘンデルではついにFハープシコードを弾いて録音しました。

 

 

 来日するとのことでズーカーマンが取り上げられています。ここで取り上げられているのは小品のアルバムですが、レコ芸の評価は無印でした。記事と連動して入れはブランデンブルク協奏曲をメインにしたいところでしたがそういう戦略は無かったようです。

 

 

  こちらはキャッチコピー通りゼルキンがベートーヴェンを録音したもので推薦盤となっていました。ゼルキンはついにベートーヴェンのソナタを全曲録音はしませんでした。

 

 

 バーンスタインも雑誌とは連動していません。このマーチを収録したアルバムは実際にはとても行進できるようなテンポでは演奏されていません。それがネックだったんでしょうかねぇ、これも推薦盤ではありませんでした。雑誌の記事と連動させる広告の打出しは難しいのでしょうかねぇ。小生はこの号のバーンスタインの特集記事で興味がわき後にバーンスタインの交響曲を集めた3枚組を購入しています。

 

 

 バーンスタインのミサ曲はソニーが力を入れていて、17cm盤のサンプラーを作成していました。まあ、ロックの要素までも取り入れた曲で時節柄、AQ4ch録音ということでも話題になりましたが果たして後世にまで残る曲かは?です。

 

 

  アメリカ本国はこのアンソニー・ニューマンをこの時期ひたすらにプッシュしていましたが、その評価は現在の時点では無に等しいのかもしれません。この当時にセルのベートーヴェンの交響曲全集とバーンスタインのチャイコフスキーの交響曲全集が発売されていたとは知りませんでした。ただ、レコード企画のSOCZはボックスモノを発売する企画であったことは覚えていた、バーンスタインの交響曲全集もこの企画で発売されたはずです。

 

 

 国内レコーディングはこの月はすべて日本コロムビアのもので占められています。この年、9月にエラートとの契約が切れますから自前のソースを必死に増やしていたのでしょう。

 

 

 このペルルミュテールはコンサートホールから何枚かアルバムが発売されていましたから名前は知っていました。その彼がコロンビアに録音したのは意外でした。

 

 

 この時代はモンテカルロからバーミンガムに移っていたはずですが、こうしてコロムビアに録音できたということは専属ではなかったのでしょうなぁ。それとも、オーケストラはEMIのせんぞくであり、フレモ―自身はフリーだったのかもしれません。こんな録音があったのですなぁ。

 

 

 このエディト・セリは全く知りませんでした。こんな録音もコロンビアは残していたんですなぁ。セリはエラートにも録音を残していて、その流れで録音企画が持ち上がったのでしょう。バロック作品が多く、シャルパンティエの「真夜中のミサ」にも登場していますが、演奏はパイヤール室内管弦楽団なのに指揮はなぜかルイ・マルティーニがしている珍しい録音です。

 

 

 レコ芸の全盛期ではポップスの記事も充実していました。当時としては珍しい雑誌でした。隅々まで読むと流行のポップスだけでないワールドワイドのポピュラーの世界が俯瞰出来ました。表紙は毎号野口久光氏のスケッチが掲載されていました。この月は渋いジルベール・ベコーが取り上げられています。

 

 

 イヴ・モンタンやシャルル・アズナブール、そしてジルベール・ベコーは60年代から70年初頭はシャンソンの三羽烏でした。美輪明宏も彼らの歌を好んで歌っていましたが、「そして今は」は一番好きな歌でその曲が聴きたいがためにアルバムを購入した記憶があります。

 

 

1972年にはポール・アンカに続いてニール・セダカも来日しています。そして、ロック・グループでは「スリー・ドッグ・ナイト」も来日しています。このバンドの名前はバンド名は「アボリジニが寒さの厳しい夜に3匹の犬と寝る」という風習にちなんでいます。名曲揃いで今でも彼らのアルバムは2枚所有しています。