曲目/ベートーヴェン
交響曲第3番変ホ長調Op.55「英雄」
1.第1楽章 Allegro con brio 17:26
2.渡邉暁雄氏への追悼の辞 0:25
3.第2楽章 Marcia funebre: Adagio assai 16:12
4.第3楽章 Scherzo: Allegro vivace 8:19
5.第4楽章 Finale: Allegro molto 12:42
指揮/宇野功芳
演奏/新星日本交響楽団
録音/1990/06/24 サントリー・ホール 東京
キング Firebird KICC238
最近は気力体力も衰え、ベートーヴェンの「英雄」をコレクションすることはし無くなりましたが、1990年代まではシャニムに集めたものです。そんなことでわざわざ書庫まで作っています。このCDもそんなコレクションには含まれていますが、ブログで取り上げようとは今まで思いませんでした。しかし、先にスヴェトラーノフの葬送行進曲を取り上げた時に徹底したアダージョを貫いた演奏に対して、そう言えばわざわざ某大指揮者に捧げると言いながらこちらも徹底的にそれをアイロニー的に自虐している演奏があったなぁと思い出し取り上げた次第です。
この演奏会は、1990年6月24日に開催されたコンサートのライブ録音です。この演奏会の2日前に、日本指揮者界の重鎮渡邊暁雄氏が亡くなっています。その哀悼の言葉を第二楽章が始まる前に、指揮者たる宇野功芳氏が、この演奏を渡辺氏に捧げますと言う趣旨の言葉を述べています。まぁ葬送行進曲ということでそういう流れになったのでしょうが、これはたまたま演奏会の2日前に渡辺氏が亡くなったと言う事実があるだけで、このコンサートとは何ら関係がないと言えるのではないでしょうか。それが証拠にこの第二楽章は、渡辺氏に捧げると言うよりは指揮者がやりたい放題のチャレンジを試みた。とんでもない演奏になっているからです。
実際、この演奏は、テンポの異様な伸縮、楽器の扱いの異様なバランス、驚くほどのデフォルメなど、「おかしさ」「変態さ」は枚挙に暇がありません。多分これからも演奏されることがないほど歪曲された演奏として記録されているのではないでしょうか。まず第一楽章の冒頭の和音の打ち込みの遅さです。出も揃っていない演奏で、なおかつこれ以上遅くは演奏できないと言うアレグロコンブリオになっています。もう最初からたかが外れていると言っても過言ではないのでしょう。まぁ、これが宇野功芳節だと言ってはばからないのであれば、それはそうなんでしょう。何から何まで異様な展開で進む英雄の第一楽章です。当日のコンサートの来場者はまず、100%宇野功芳氏のファンというか狂信者の集まりだったのではないでしょうか。多分一般の観客であったなら、時代はともかく、ブーイングで、なおかつ足を踏み直らして、抗議の意思表示をしたストラヴィンスキーの「春の祭典」の初演のような騒ぎになったのではないでしょうか。
この演奏については、本人も下記の書籍の中でこう述べています。
「英雄」なんかの演奏となると、世界一になりたいと思っても、まあ、なりようもないわけでね(笑)、そうすると、第1楽章の展開部のところだけは、フルトヴェングラーじゃ物足りないから、おれがもうちょっとやってやろうとか、とにかく、何かで一番になりたいと思いますね。~宇野功芳「交響曲の名曲・名盤」(講談社現代新書)
最近はよくアマチュアのコンサートを聴きに出かけますかそこに登場する指揮者たちのなんと無個性で教科書的な演奏ばかりをするのだろうと言うコンサートが非常に多いことに気がつきます。古楽器がブームになると早めの店舗でぐいぐいと押し進める英雄の演奏が主流になりましたが、これは古楽器に限らず、現代のオーケストラも一応にそういうタイプの演奏をするようになりました昔の個性的な指揮者のようにゆうゆうたる店舗でどっしりとした演奏をすると言うタイプの指揮者は今はほとんどいないのではないでしょうか。そういう意味で言うと、アンチテーゼ的にこの宇野広報誌の英雄は1兆の価値があります。こういう解釈が英雄ではできるのだぞと言う。そういう表現の方法ありとあらゆる可能性を含めてこの演奏の中でチャレンジしています。楽器の仕方、しかり、楽節の表現方法、フェルマータやリタルダンドの挿入、そういうものが全てこの中に詰め込まれています。
上記の本では、この演奏に対して次のようにも述べています。
だから、僕は、自分の「英雄」の演奏を批評できますよ。例の第1楽章がいまにも終わるという、いちばん盛り上がった最後の部分で、フニャ~というはずし方をしてるでしょ。あれは批評家としては絶対に許せない(笑)。あれは、やりすぎですよ。でも、演奏家の僕としては、やらずにいられないんだなあ(笑)。どんなに考え抜いて、まずいかなあと思っても、一度はやらないと気が済まないってことが、演奏家にはあるんですよね。まあ、今度から、あの部分だけはやめますが(笑)。
こういう録音をレコード会社が録音すると言う事は、それだけの価値があって、後世に残そうと記録したものだと思われます。まず、これ以上奇怪な「英雄」は今後も現れないのではないでしょうから、そういう意味では、貴重な録音と言っても過言ではありません。
多分クラシック音楽がポップスに比べて衰退していると言うのは、こういうところにも原因があるのではないでしょうか。数百年も残ってきたクラシックが、画一的な演奏で評価されてきたわけではないはずです。そこには常に革新的な表現と言うものが存在したと思います。その実践の表れがこの演奏になっているような気もします。
やっぱり楽譜忠実主義というのがよくないんですよ。楽譜に忠実に、といったところで、楽譜という記号自体が、いろいろな解釈が可能な範囲でしか音楽を記録に残せない。にもかかわらず、楽譜に忠実に、という旗印を掲げると、妙に去勢された音楽しか生まれなくなる。僕だって、楽譜をよく見て、何度も読み直して、忠実にやってるつもりなんですよ(笑)。でも、楽譜に忠実でなければならない、とか、これこそ正しいベートーヴェンだ、なんていい方は、絶対にしませんよ。だって、残された記号だけから、どれが“本当”か、なんていえませんからね。かりに正しい演奏というものがあったとしても、感動的でなければどうしようもない。音楽には、美しいか、そうでないか、素晴らしいか、そうでないか、という価値判断しかないでしょう。にもかかわらず、楽譜忠実主義なんていう、権威のようなものを持ち出すからおかしくなるんです。
音楽に限らず、絵画の世界でも同じようなことがいえます。いろいろな展覧会にも足を運んでいますが、その中でキラリと光る作品があります。そういう絵画を見つめていると、そこにはやはり作者の個性がきらりと光っています。こういうものがないと芸術を楽しむきっかけにはならないのではないでしょうか。そういう意味では本流とは違いますが、こういう解釈もあるのだぞという変化球的な演奏で新しい方向性を見出すのも良いきっかけになるのじゃないでしょうか。
一度は聴いて損のない「英雄」です。