小説すずめの戸締まり | geezenstacの森

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小説すずめの戸締まり

著者: 新海誠]
出版: KADOKAWA
 
 

 

 扉の向こうにはすべての時間があった。新海誠自らが綴る原作小説!
九州の静かな港町で叔母と暮らす17歳の少女、岩戸鈴芽。
ある日の登校中、美しい青年とすれ違った鈴芽は、「扉を探してるんだ」という彼を追って、山中の廃墟へと辿りつく。
しかしそこにあったのは、崩壊から取り残されたように、ぽつんとたたずむ古ぼけた白い扉だけ。
何かに引き寄せられるように、鈴芽はその扉に手を伸ばすが……。やがて、日本各地で次々に開き始める扉。
その向こう側からは災いが訪れてしまうため、開いた扉は閉めなければいけないのだという。
―――星と、夕陽と、朝の空と。迷い込んだその場所には、すべての時間が溶けあったような、空があった―――

不思議な扉に導かれ、すずめの“戸締まりの旅”がはじまる。新海誠監督が自ら執筆した、原作小説!---データベース---

 

 

 このゴールデンウィークはテレビは面白くないのでネットでずっと映画を見ていました。Amazonで「ゴジラ−1.0」、Netflixで「ミッション・インポシブル」や「プルートゥ」を楽しみましたが、「すずめの戸締り」もラインナップされていました。ただ、文庫本の「すずめの戸締り」を先にゲットしていましたので、ここは先に小説版を読もうと我慢していたのです。

 

 読んでから見るか見てから読むかと言う命題がありますが、小生の場合は読んでから見ると言うのが1つのパターンです。この「すずめの戸締り」は、監督が著者でもあると言うことで、作品のプロットは映画そのままです。
 
 普通の映画の原作は先にシナリオがあって、それを第三者がノベライズすると言うことで、ほとんど小説と原作は別のものになってしまうことがあります。しかし、ここでは小説そのものが映画ですから、全く違和感がありません。却って小説を読んでから見た方が映画でどの部分がそぎ落とされてしまっているのかというのがよく確認できます。
 
 新海誠の作品は、「君の名は。」、「天気の子」でもわかるようにSF的なテーマが中心のストーリーになっています。そういう意味では今回も同じパターンとは言えますが、今回はそれにロードムービー的な面白さが加わっています。宮崎から愛媛、愛媛から神戸、神戸から東京、東京から宮城。こういう移動の中でストーリーが進み、ロード・ムービーならではのその現地の人たちの交流がうまく描き込まれています。
 
 閉じ師と言う仕事は初めて目にしました。ミミズを封じ込めると言う発想と全国に展開するスケールの大きな作品ではありますが、小説の中ではいまひとつイメージができなかったものが後から映画で確認することができると、その言葉の持つ意味がより深く理解できます。また、小説の中では「要石」と「後ろ戸」との関係がいまひとつわからなかったのですが、映像で説明されるとそれが納得でき、日本全国を旅すると言う意味が理解できます。冒頭すずめの住む街で廃墟となったホテルが偶然にもすずめの過去の体験を呼び覚ますという設定が物語の根幹となっています。すずめが抜いてしまった「要石」がダイジン」となり、すずめの子供の頃の椅子がその「ダイジン」によって宗像草太に変身させられると言う展開は、作者ならではの発想でしょう。
 
 この椅子がこのストーリーの大きなポイントになっていますが、猫になった「ダイジン」の移動がSNSによってアップされると言ういかにも現代的な事象がこのストーリーを形作っています。ただ、東京での出来事以降はそのSNSが消えてしまい、物語の展開がすずめに纏わりつく「ダイジン」という存在に変わってしまっていたのがどうもよく理解できません。
 
 後半から登場する草太の友人の芹澤と言う男の存在も稀有なキャラクターですが、なんか取ってつけたような存在という気がしないでもありません。映画自体は黄色い椅子と赤いスポーツカーと言う原色が登場することで、映画の画面が引き締まります。
 
 小説では事故を起こして、土手の下に転落した車から雀や環が芹澤を置き去りにして実家に向かう様子が芹澤のその後も含めて詳しく描写されていますが、映画ではその流れがバッサリと切られてしまっているのがわかります。ストーリーには大きな影響は無いのでしょうが映画しか見ていないものにとっては、なぜそういう展開になるのか違和感があるのではないでしょうか。
 
 そんなこと考えながら小説を読んだ後で映画を見ると、すべてのピースがきっちり当てはまるジグソーパズル的な充実感があります。Epilogueの描写も小説では箇条書きではありますが、きちっと描かれているのに対して映画では絵コンテのワンシーンでそれらが語られていきます。多分映画だと1回見ただけではそういう物語のエピローグがなかなか理解しがたいのではないでしょうか。映画は最後に冒頭の坂道のシーンになります。雀と草太の出会いが「お帰りなさい」の言葉でエンディングを迎えるわけですが、映画のエンディングはその辺がちょっと物足りないものになっていました。これは絶対小説を読んでから見る映画なのでしょう。