レコード芸術1974年10月号 4 | geezenstacの森

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レコード芸術1974年10月号 

4

 

 ずいぶん間が空いてしまいましたが「レコード芸術1974年10月号」の記事の続きです。3年前から「世界の指揮者」という連載記事が続いていて、この号はフルトヴェングラーが取り上げられていました。この月の執筆者は小石忠男氏でした。ちょっとした読み物になっていますので全文取り上げてみます。

 

 

 この記事の中で、フルトヴェングラーの作曲家別の演奏回数が引用されてるのが興味を引きました。曰く、

・ベートーヴェン 167

・ブラームス  84

・R,シュトラウス 36

・シューマン  34

・バッハ 30

・ブルックナー 25

・ハイドン  23

・シューベルト  22

・チャイコフスキー  20

・ヘンデル、プフィッナー 18

・ワーグナー  17

・ウェーバー  16

・ストラヴィンスキー  13

・メンデルスゾーン、グルック  10

などとなっています。これはフルトヴェングラーの32年間に演奏した曲目の作曲家数の集計です。いかにレパートリーが限られていたかをこの数字は示しています。圧倒的にベートーヴェンが多いのにびっくりしますが、モーツァルトの名前が出ていないのにもびっくりです。頻度が低かったんですなぁ。さしずめ、現代では流行からは取り残されている指揮者と言ってもいいでしょう。

 

 

 徳間音工はこの時「シャルプラッテン」の表記から「エテルナ」の表記に変わっています。そして、ヘルムート・コッホとアーベントロートを全面に出した広告を打ち出していました。コッホについてはDGGからもレコードが出ていましたのでそこそこ知っていましたが、アーベントロートは初めて聞く名前でした。アーベントロートは1883-1956年に活躍した人ということで、それまで全く聞いたこともない指揮者でした。時代的にはステレオ以前の人でしたから当時は全く興味がありませんでした。まあ、今でも興味はありません。今では国内盤は全て廃盤になっているようです。フルトヴェングラーと同時代に活躍していましたがベートーヴェンはほとんど録音を残していないというところも人気が出ないところなんでしょう。

 

 

 日本コロムビアはエラートを失って、スプラフォンレーベルから「ミラン・ムンツリンゲル」を担ぎ出しました。個人的にはアメリカのスプラフォンの発売窓口であった「クロス・ロード」というレーベルで当時はすでに知っていましたから、ようやく担ぎ出してきたか、と冷静に受け止めていました。まあ、この広告宣伝はあまり成功しなかったように思います。ムンつリンゲルの名前を知っている人はどれくらいいるのでしょうかねぇ。

 

 

 この年バーンスタインはブーレーズと共にニューヨークフィルと来日しています。ニューヨークを辞任して時代的にはブーレーズの時代になっていたのですが、やはり、人気的にバーンスタインを引っ張り出さなけれは集客に自信が持てなかったのでしょう。なを、バーンスタインのラヴェルは旧録音、ブーレーズは新録音です。多分日本盤は編集盤ではないかと思われます。バーンスタインはCBSに自作品を次々と録音していましたが作曲家としてのバーンスタインはミュージカル以外は評価されませんでした。新譜ではあれど扱いが小さいのはそんなところに原因があるのでしょう。

 

 

 ジュリアードのベートーヴェン弦楽四重奏曲全集が完成しています。CBSにはブダペストの全集録音がありますからこちらは10年もかかってしまっています。この時期、CBSに登場するジョン・ウィリアムスはギタリストのジョン・ウィリアムズです。

 

 

 コマを持っているとはいえロンドンこの時アシュケナージと組んだアルバムを投入して東芝の新譜に対抗しています。曲目的にバルトークはちょっと弱い打ち出しになってしまいました。

 

 

 ゲルバーはもう少し人気が出るかと思われましたが低調でした。ライオネル・ロックはフィリップスのアーティストと思っていましたがEMIからも録音を出していたんですなぁ。フランク・プゥルセルのアルバムがクラシックのページで紹介されることはちょくちょくありました。

 

 ウェストミンスターはこの年には発売権がキングから東芝に移っていたんですなぁ。ということでモノラル時代の名盤は再発されていますが、ステレオ時代の録音は日の目を見ないことになってしまいました。

 

 

 何気ないすてふあーのとカラスのデュオの録音ですが、オペラに出なくなったカラスはリサイタルでどさ回りをすることで名声を保っていました。そして、このレコードは1974年のカラスのラスト・コンサートとなる来日ツァーの来日記念盤でもありました。カラスはこの札幌での最後のコンサートの後、ついにステージに立つことはありませんでした。ジャックリーン・オナシスとの恋に敗れ、不倫相手のステファノにも裏切られカラスは一人寂しく1977年に亡くなります。