フィルハーモニー雑記
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著者:近衛秀麿
出版社:音楽之友社 音楽文庫
今回取り上げるのは近衛秀麿がヨーロッパに出かけた時のことです。近衛秀麿は1930年秋からヨーロッパに単身演奏旅行に出かけた秀麿はフルトヴェングラーやブルーノ・ワルター、クライバーらが指揮するベルリン・フィルやライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団などの演奏を聴き、日本と海外のレベルがあまり縮まっていないことを痛感したといいます。また、これに先立ち、1923年、秀麿はヨーロッパに渡り、ベルリンで指揮をエーリヒ・クライバーらに、作曲をマックス・フォン・シリングス(フルトヴェングラーの師)、ゲオルク・シューマンに学び、パリで作曲をダンディらに師事しています。
そのヨーロッパ滞在中の1924年1月18日に、かつて山田一雄がそうしたように秀麿も自腹でベルリン・フィルハーモニー管弦楽団を雇い、ヨーロッパでの指揮者デビューを果たしています。また、ドイツのインフレと著しいマルク安にも助けられて、おびただしい数のオーケストラ用の楽譜を買い込み、同年9月に帰国ています。
さらに、1936年には前回取り上げたレオポルド・ストコフスキーから秀麿に客演の要請があり、まずアメリカに向かい、ストコフスキーのほかユージン・オーマンディやアルトゥーロ・トスカニーニと面会、そして11月にはヨーロッパへ移りBBC交響楽団やドレスデン、リガの歌劇場などに客演しています。
翌く1937年に入るとアメリカを経て一時帰国。日本とアメリカの幾度かの往復の後ヨーロッパに移動しています。1938年に一時帰国し改めて親善大使に任ぜられたのち、再びアメリカ・ヨーロッパに向かった。NBC交響楽団の指揮者陣に加わったのですが、アメリカの対日感情悪化で話が流れ、一度だけ指揮台に登りドヴォルザークの新世界などを振っただけで即座にヨーロッパに移動します。この1937年2月16日の演奏は日米同時中継されていて、今ではこの音源をCDで聴くことができます。でこの時はヨーロッパでは有名無名問わず各国でおびただしい数のオーケストラを指揮したようです。第二次世界大戦勃発後もフランスで1944年4月には親交のあったユダヤ人を匿うなどして、「オルケストル・グラーフ・コノエ」を組織しています。ただ、同年6月にはノルマンディー上陸作戦が始まったためすぐに解散となってしまいます。ただ、このオーケストラにはドイツでの活動が1943年以降制限されたものの、華やかな演奏活動を繰り広げた。この時組織されたオーケストラは、ピエール・ピエルロやジャック・ランスロなんかも参加していたようです。
NBC交響楽団を指揮する近衛秀麿の写真=近衛音楽研究所所蔵
この本は名の通り、音楽に関する雑記でいろいろなところに発表して物を集めているので体系的にはまとまっていません。近衛の外遊関係を纏めてみると以下のようになります。
- 1938年~1939年:ベルリン、ミュンヘン、デンマーク、スウェーデンなど
- 1940年:ミュンヘン、ベルリン、ウィーンなど
- 1941年:ヘルシンキ(この際、シベリウスと親交を結んだ。また大統領から「フィンランド白薔薇十字勲章大十字章」を授かった)。ハノーファーなど
- 1942年:ブレスラウ、ハンブルクなど
- 1943年:ベオグラード、ソフィア(ブルガリア国王ボリス3世の前で御前演奏を行い、勲章を授かった)、ミュンスター、クラクフ、ルヴフ、ワルシャワ、ブリュッセルなど
- 1944年:パリ、ベルギー。1944年4月に「オルケストル・グラーフ・コノエ」をパリで組織している。主にフランドルを巡演して回ったオーケストラであるが、同年6月のノルマンディー上陸作戦前後に巡演先で解散した。
- 1945年4月、ドイツの敗戦によりライプツィヒでアメリカ軍に抑留され、アメリカ経由で12月にようやく帰国した。その直後、秀麿の兄で元首相の文麿が自殺している。帰国前の1945年11月11日、戦時中に外交官が抑留されていたベッドフォード・スプリング・ホテルで、日本人の解放を祝う演奏会が開かれたが、その演奏者リストに名を連ねています。