第47回堀川文化講座
『どうする名古屋 どうする家康』
「徳川義直」(とくがわよしなお)は、「徳川家康」の側室「お亀の方」のちの「相応院」(そうおういん)の子として、父である徳川家康が関ヶ原の戦いで天下統一を果たした1600年(慶長5年)に誕生。幼名は「千々世丸」(ちぢよまる)のちに「五郎太丸」と名付けられ、天下人となってからの徳川家康のもとに生まれた初めての子となります。それもあった家康は義直を寵愛したんでしょうなぁ。
徳川家康が統治していた甲斐国(かいのくに:現在の山梨県)は、一時、豊臣氏勢力の領土となっており、1593年(文禄2年)からは「浅野長政」(あさのながまさ)が治めていました。1603年(慶長8年)に徳川家康による天下統一で再領(さいりょう:再び統治する領土になること。)となり、甲斐国府中(かいのくにふちゅう:現在の山梨県甲府市)240,000石が徳川義直に与えられることに。しかし当時、まだ2歳と幼かった徳川義直は甲斐国には移らず、父・徳川家康と生母・お亀の方と「駿府城」(すんぷじょう:静岡県静岡市)に留まり、父母のもとで育てられました。
1606年(慶長11年)に元服(げんぷく:成人を示す儀式)した徳川義直は、翌年の1607年(慶長12年)に兄「松平忠吉」(まつだいらただよし)の逝去に伴い、「尾張国清州」(おわりのくにきよす:現在の愛知県清須市)に移封して「清州藩」470,000石の藩主となります。この当時、清州は尾張の中央に位置する要所でしたが、土地が狭く水害に遭いやすいという問題を抱えていました。そこで、父・徳川家康は、「熱田神宮」(愛知県名古屋市熱田区)近くの名古屋を、尾張の新たな拠点とすることを命じます。こうして、天下普請(てんかぶしん:江戸幕府が全国の諸大名に命令し、行わせた土木工事)として新たな本拠地である「名古屋城」が築かれたのです。
この間、徳川義直は駿府を離れることはなく、領国経営は家老の「平岩親吉」(ひらいわちかよし)を中心に行われました。徳川義直は、1614年(慶長19年)に大坂冬の陣で初陣を飾り、翌年、1615年(慶長20年)の大坂夏の陣では天王寺・岡山の戦いに参戦。そして、1616年(元和2年)に徳川家康が亡くなったあと、徳川義直は初めて尾張へ入国しました。
こうして徳川義直は、619,500石の尾張藩初代藩主、そして「尾張徳川家」の家祖としての人生を歩み始めたのです。
徳川家康の九男・徳川義直が創始となった尾張徳川家は、徳川御三家のなかでも筆頭格の家柄です。江戸時代を通して、数々の大名のなかで最も格式の高い大名家として地位を築きましたが、徳川御三家のなかでは唯一江戸幕府将軍を継承せず、独自の文化を形成していきました。また、幕末の「戊辰戦争」(ぼしんせんそう)においては、徳川御三家のうち唯一、幕府軍ではなく新政府軍として戦った家。尾張徳川家は、江戸時代から現在にかけて、あらゆる徳川家のなかで最も資産を持った家柄でもあります。
地図中の④は北斎漫画の版元としても活躍した永楽屋、②の風月堂書林は、少く共貞享四年から明治まで、約二百年に渉って営業した、名古屋最古・最長の書肆、現在の中日病院の駐車場。③桜天神のそばに札の辻があったということはここが江戸でいう日本橋にあたる場所だったということがわかります。本町通りはメインストリートだったわけです。
義尚の生母お亀の方(相応院)は石清水八幡宮の祠官・志水宗清の娘ということもあり、この八幡宮の鳩の向き合う図案から名古屋の市章㊇ができたという説もあります。
義直の子光友は能書家で、今でも彼の筆跡に出会うことができるそうで名古屋の老舗「両口屋是清」の屋号の文字はこの光友が書いたものだそうです。
そういう、小ネタも飛び出した今回の講演、実に楽しいものでした。そして、講演終わりには、出口で「おからどーなつ」をいただきました。
さて、この講演会に関連して11月4日には「家康と尾張徳川家ゆかりの地を訪ねる」というイベントが開催されます。集合は鶴舞線「丸の内駅」ということです。ただし、参加は無料ですが、定員は50名ということですので早めに申し込んでくださいね。