第2回 東海道57次交流会

12月16日に「第2回 東海道57次交流会」が名古屋市中区役所ホールで開催されたので出かけてきました。ちなみに第1回は2017年12月9日に静岡市蒲原宿のあった「東海道蒲原宿 静岡市蒲原生涯学習交流館」で開催されています。この時は、総務省が後援だったのですが、参加費が1,500円かかっています。今回の第2回開催は、名古屋市が共催ということで参加費は無料となっていました。唯一減税を実施している名古屋市は太っ腹ですなぁ。プログラムは第1回とほぼ同様でしたが、以下のような内容で開催されました。

この日はNHK名古屋が取材に来ていて、何とこの催しについて小生がインタビューを受け、夕方6時45分のニュースでその様子がばっちり放送されていました。テレビ初登場でした。(^_^;)どなたかご覧になられた方はいますでしょうかね?

開会挨拶で、志田さんからハッピを贈られ笑顔の名古屋市長の河村さん

第1部の講演はJR東海専務取締役、JR東海不動産社長を歴任し、退職後は東海道町民生活歴史館」「東海道57次・中山道67次交流館」館主、恵那市観光協会「恵那観光大使」として活躍する志田威氏の「東海道は大阪までの57次だった~郵便は、この57次から始まった~」という宿場の成立に関する話でした。この宿場、何と徳川家康は、関ヶ原の戦いのわずか3ヶ月後に東海道に設置を命じています。ということは、また大阪冬の陣、夏の陣のはるか前です。それで、当初は品川から大津までの53次であったわけです。「次」という漢字は「継」が変化していったもので、当初の宿場には3つの使命がありました。1つ目は、人馬継立て。2つ目は、継飛脚(つぎびきゃく)。3つ目は、宿泊の提供でした。これは、幕府の公用のために使われたものです。まだ、一般の庶民が使えるものではありません。
幕府の公用のために人馬を継の宿に奥るのが問屋場でした。「とんやば」ではありません。「といやば」です。これが宿場の最大の役目だったのです。要するにリレー形式で物流を動かすわけです。そのための場所が宿場だったわけです。もともとは、お上の為の宿場だったのですが、徐々に一般の人が使うようになりました。東海道は賑やかだったため『100人 100疋(匹)』。これに対して、中山道は『50人 50疋』。その他の街道は『25人 25疋』整備されています。
さて、現在でも東海道といえば国道1号線をイメージする人が多いでしょう。つまりは東京~大阪です。東海道は本当は57次だったのですが、江戸から京都までの東海道と江戸から大坂までの東海道の2つあったと解釈すれば、東海道は五拾三次と五拾七次と言えます。したがって、東海道は53次も決して嘘ではないのです。この『東海道は53次』の方が広まったのは、広重の描いた浮世絵の影響が大きいと言えます。

ところで、1594年隠居後の住まいとして伏見城の築城に着手した豊臣秀吉は毛利輝元、小早川隆景、吉川広家らの毛利一族に命じて、淀川が氾濫するのを防ぐため淀川の左岸に堤防を建設させます。文禄堤(ぶんろくつつみ)と名付けられたこの堤防の上を伏見から大坂にいたる「京街道」として整備しています。大坂の陣の後、徳川2代将軍秀忠の時代の1619年、この京街道に「伏見」「淀」「枚方」「守口」の4つの宿を新しく設けました。これは参勤交代で東海道を往来する西国の諸大名が、京にいる朝廷に接触することを極度に警戒し、京を迂回し大津追分経由で往復するルートとし、なお且つ大阪城を再建し西国への見張りとする目的で徳川幕府が造った街道で、ここに「宿場」を設けたものです。「53」から「57」に延長された区間の中心・伏見宿は家康が最初の銀座役所を置くほど重要視し、貨幣鋳造所などが作られた。天保14年(1843年)の幕府記録では東海道57宿中、戸数でも人口でも断トツの規模を誇る最大都市でもありました。
のちに幕末の鳥羽伏見の戦いの時には、薩摩藩は伏見宿の御香宮神社(ごこうのみやじんじゃ・ごこうぐうじんじゃ)に陣を張り幕府軍と戦って勝利したことから、神社は新生日本発祥の地ともいうべき場所となり、現在もそれを解説する説明板が置かれている。伏見は京に近いことや竜馬の定宿・寺田屋の復元などで広範に知られています。更に大坂方面に向かうと、朝鮮通信使が上陸地として利用した淀宿、淀川を往来する舟の中継地として知られた枚方宿、最終の宿、守口宿へとつながります。何れも東海道に義務付けられた伝馬業務や継飛脚を忠実に遂行した宿場町で、淀川の三十石船に客を奪われ下り客は少なかったようですが、上り客で賑わうことから片宿と呼ばれる、異色の4宿であったといえます。
そんなことで、これらの4つの宿と東海道五十三次の宿を足したものが「東海道五十七次」となります。今では一部の歴史の教科書には記載されているそうですが、ほとんどが53次で掲載されているようです。
さて、そんな東海道57次ですが、明治維新になるとこれが郵便制度に活用されます。当初の郵便制度は東京~京都~大阪間で開始されます。当初は「郵便取扱所」と言いました。ただ、東海道は宮宿から桑名宿は船でしたからこの区間が陸路に置き換えられています。この時東海道は57宿、脇街道の佐屋に4箇所、そして美濃路の名古屋の1箇所が加わり62箇所が設置されています。ちなみに宿場を英訳すると「POST TOWN」と表記されています。まさに郵便のことを指しているんですなぁ。ちなみに郵便という言葉を採用したのは制度の生みの親「前島密」です。
では何故東海道は五十三次として世間一般に知られていたのでしょうか?これには諸説あると思いますが、総合出版社の風人社さんの見解では、京から大阪へ向かうのは西国からの参勤交代する武士階級や大坂に用事がある商人がメインで、一般の庶民は観光でお伊勢参りに訪れたあとついでに京の町を行ったかもしれませんが、余程のことがない限りはその先の大坂には向かわないとのこと。歌川広重が浮世絵で「東海道五十三次」を描いたのもそうした庶民感覚の故であり、京~大坂には描く必要性がなかったのではないかとされています。確かに言われてみればそうかもしれませんね。


東海道の統一ロゴを披露する大津市、草津市の提案

交流会の後半は宿場関係者や自治体による東海道のPRでした。この中で、静岡県による来年の4月から6月にかけて行われる「静岡ディスティネーション」が興味深かったです。実のところあまり知られているとは言えませんが、この12月31日まで愛知県が「愛知ディスティネーション」を実施しています。
ちょうど先週、静岡に行ったところで何か縁を感じます。来年は静岡での東街道ウォーキングを楽しみましょうかね。

当初の予定は16路30分まででしたが、盛り上がり長引いて、終了して外に出ると街はとっくに日が暮れていました。