邪馬台国の数学と歴史学
九章算術の語法で書かれていた倭人伝行路記事
著者:半沢英一
発行:ビレッジプレス
倭人伝の文面を無視し独り歩きしている「邪馬台国」という言葉。それを怪しまず助長する学界とジャーナリズム。この状況を許したのは、倭人伝は所詮つじつまが合わない文献だという共通認識だった。しかしほんとうに倭人伝はつじつまの合わないものなのか。同時代の中国数理科学文献を典拠とし、倭人伝行路記事の隠された高度の合理性を露わにし、千七百年の謎に挑んだ意欲作。
小生は大学時代歴史を学んでいました。それも東洋史ということで、大学には内藤湖南の息子さんの内藤戊申先生が講義を持っていました。そんな関係で京都大学にも出入りしていたのですが、その内藤湖南先生がこと邪馬台国については畿内説を取っていたのが訝しく思っていたものです。
この邪馬台国には少々興味があり、手元にも魏志倭人伝を始め関係する書籍は今でも書架に鎮座しています。まあ、大学時代にはまだまだ学問は発展途上にあって、江上波夫氏の「騎馬民族征服王朝説」も話題でした。
そんな中で、個人的には邪馬台国は九州説を支持したものです。何となればその、里程を考えるとどう見ても畿内に到達することはできなかったからです。今では卑弥呼の墓は奈良の「箸墓古墳」に比定されることが通説のようになってきていますが、発掘された鏡や銅剣、埴輪の類からしても、一貫した連続性が感じられないので、個人的には疑問です。
そんな時目についたのがこの本です。数学というと、ギリシャやインドの方が先進的であったような風潮がありますが、何の事は無い中国でも数学は発展を遂げていたのがこの本で明らかになります。そして、タイトルにも書かれている「九章算術の語法で書かれていた倭人伝行路記事」という副題からして水行、陸行の謎が解き明かされていきます。まずは、この本の章立てです。
<目次>
第1部 なぜ倭人伝行路記事では異常な里単位が使われているのか?
第1章 倭人伝行路記事
1 魏志倭人伝概要
2 倭人伝行路記事
3 行路記事概要
4 短里問題
5 行路記事のオリジナルな原文とは何だったのか?
第2章 中国古代数理科学の中の短里
6 『周髀算経』の蓋天説と一寸千里説
7 一寸千里説に隠れていた短里
8 中国古代数学者・劉徽と行路記事との関係
9 『九章算術』劉徽序文の一寸千里説
10 劉徽の海島算経
11 海峡距離はどのように測られたのか?
第3章 三国志状況と短里の可能性
12 魏の受命改制
13 明帝詔勅の蓋天説
14 渾天説に圧倒されていた蓋天説
15 魏の存在理由としての復古主義
16 三国志状況がもたらした短里
第2部 倭人伝行路記事はほんとうに辻褄の合わないものなのか?
第4章 古田武彦氏の傍線読法
17 倭人伝行路記事はいかに読まれるべきか?
18 傍線読法その一(韓国内陸行)
19 傍線読法その二(島内里程半周計算)
20 傍線読法その三(「至」先行動詞有無による主線・傍線書き分け)
21 傍線読法その四(不弥国・邪馬台国間距離ゼロ)
22 傍線読法その五(「水行十日陸行一月」全日程)
23 傍線読法では部分里程の総和が全里程となる
第5章 傍線読法の検討
24 その一(韓国内陸行)の検討
25 その二(島内里程半周計算)の検討
26 その三(「至」先行動詞有無による主線・傍線書き分け)の検討
27 その四(不弥国・邪馬台国間距離ゼロ)の検討
28 その五(「水行十日陸行一月」全日程)の検討
第6章 傍線読法の典拠としての中国古代数学
29 『周髀算経』における先行動詞が無い「至」
30 『九章算術』における先行動詞が無い「至」
31 『九章算術』における先行動詞が有る「至」
32 中国古代数学におけるゼロ「無入」
33 中国古代数学の語法で書かれていた倭人伝行路記事
第3部 邪馬台国はどこにあったのか?
第7章 邪馬台国博多湾岸説批判
34 博多湾岸説の論理
35 行路記事と合わない博多湾岸説
36 考古学とも合わない博多湾岸説
第8章 筑後川からの水行と甘木にあった邪馬台国
37 「末盧国」松浦郡、「伊都国」糸島郡という通説を疑う
38 筑後川から可能だった水行
39 甘木にあった邪馬台国
40 実際に魏使がたどった道
第9章 邪馬台国甘木説の検討
41 神話と歴史を混同してはならない(安本美典説批判)
42 人口論との整合性
43 傍国比定との整合性
44 甘木邪馬台国の考古学的痕跡
第4部 邪馬台国はその後どうなったのか?
第10章 末期的弱体王権だった邪馬台国
45 邪馬台国が謎だったもう一つの理由
46 倭人伝政治記事
47 倭人伝そのものが語る邪馬台国の脆弱性
48 狗奴国とはいったい何ものだったのか?
第11章 日本列島に急展開した前方後円墳
49 前方後円墳概要
50 特殊器台から考える前方後円墳の起源
51 年号鏡から考える前方後円墳出現の実年代
52 日本列島に急展開した前方後円墳
53 前方後円墳王権の祭祀的統合性
54 中国王朝の権威が必要ではなかった前方後円墳王権
第12章 邪馬台国大和説批判
55 邪馬台国は日本最強の勢力という思い込み
56 大和説の根拠としての『日本書紀』
57 日本の王は天皇だけという思い込み
58 大和説の根拠としての三角縁神獣鏡
59 下賜鏡ではありえない三角縁神獣鏡
60 卑弥呼の墓になじまない箸中山古墳
61 倭人伝そのものが否定する邪馬台国大和説
62 前史がなかった大和
第13章 前方後円墳王権に併呑された邪馬台国
63 文献から消えた邪馬台国
64 前方後円墳創出に寄与せず、やがて前方後円墳圏に入った九州
65 前方後円墳王権に併呑された邪馬台国
66 再び、狗奴国とはいったい何ものだったのか?
67 本書全体のまとめ
こういう論考があり、魏呉蜀の三国時代にあって、その一旦を担っていた魏の倭人伝という限られた記述の中だけに登場するのが邪馬台国です。それも、同時代に歴史人が期するものではなく、前王朝の業績を纏めた正史ですから、伝聞や引用の結果を記してあるということは否めません。ましてや、感じの種類の多い当時は書き写しで誤字、脱字の類も多々発生し、その後に続く正史では意味不明の文脈も記載されています。
まあ、ここはやはり魏志倭人伝を唯一の拠り所として解釈をしていくほかはないでしょう。邪馬台国が魏に使者を送ったことだけは史実なんでしょう。そして、貢ぎ物の見返りに下賜品を受け取ったのも事実でしょう。ただ、この倭人伝の記述から浮かんでくる邪馬台国は強大な王権に支えられていた国とは趣をことにします。弱小国家の連合体といった方が真実に近いような気がします。卑弥呼が死にそのあとの内乱ののち「臺與」が跡を継ぎます。
時代は2世紀から3世紀にかけてで、この時代日本では各地に「前方後円墳」が作られていきます。これは中国地方の吉備が一つの文化圏を構成していて、暫時大和方面へ伝搬していく様が見て取れます。こういう、考古学的側面からすると邪馬台国は九州地方の小国で、歴史の中では狗奴国と対立していたことも記載されているので、やがてその勢力に飲み込まれてしまったと思われます。つまりは、比較的最近話題になったサガの「吉野ヶ里遺跡」のような村(国)の集合体が邪馬台国であったのでしょうなぁ。
生田存在する邪馬台国関連本の中ではかなり専門的な書で、ある程度歴史に通じていないとなかなか理解しがたいものがありますが、興味のある人ならこれは読んでおいて損のない一冊です。
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