春シーズン最後のウォーキング 豊橋 2
豊川の河川敷の遊歩道を進んで行くと石垣の階段があり、そこから見上げることができます。ここからも登れますが石段は天然の石の切り出しで高さは不揃いのため登りにくいです。
吉田城は1505年に築城された今橋城が後に改称されたもので、現在は昭和29年に復興された鉄櫓が豊川のほとりに建っています。吉田城の歴史は、永正2年(1505)、牧野古白により今橋城が築かれたことに始まります。 戦国時代、東三河の要であった今橋城は、激しい攻防が繰り返されるなか、名称も吉田城と改められました。永禄7年(1564)には松平(徳川)家康が吉田城を攻略し、城主に酒井忠次を置きました。 天正18年(1590)、家康の関東移封によって池田輝政が15万2千石で入城し、城地の拡張や城下町の整備を行いましたが、慶長5年(1600)関ヶ原合戦の後姫路に所替えになりました。 江戸時代には東海道の要衝として譜代大名が在城しましたが、財政的要因のため完全に整備されないまま明治を迎えています。ヒムシゲの東海道五十三次の浮世絵に描かれる吉田宿も未完の吉田城が描かれています。
写真の鉄櫓(くろがねやぐら)は9つあった当時の櫓の一つですが、古図面ではしばしば「本丸」と表記されています。このジオラマでは左端が鉄櫓で中央部分は本丸御殿となっています。
この角度では石垣の右端が鉄櫓(くろがねやぐら)で、恥に切れて写っているのが川手櫓で、その手前に豊川が流れています。
鉄櫓は無料で公開されていて、その役割はパネルで説明されています。
大名行列
赤い道筋が江戸時代の東海道です。城下町を曲り手で迂回して左に大きく外れて橋が架かっていました。
広重の五十三次はこの橋のさらに西から描かれています。
このパネルでこの吉田藩には幕府の指定した鋳銭所があり、寛永通宝が鋳造されていました。こういう施設は全国に9箇所あったそうです。確かに、全国流通させるためにはそれぐらいないと不便ですわなぁ。ただし、上のパネルの背には吉田駒曳銭という絵銭です。
本丸御殿に隣接していたということで鉄櫓が天守であったとして紹介しています。
その天守から眺めた「豊川」
天守の窓は風情がありませんが、窓上には吉田宿にまつわる浮世絵が飾られています。
吉田城は九つの櫓で守られていました。
武家屋敷は城の南側に取り囲むように配置されていました。
この鉄櫓も宝永地震で崩壊したようです。
明治期に撮影された元家臣の集合写真です。もう誰も髷は結っていません。
この写真が撮られた時期にはもう鉄櫓は取り壊されています。手前の櫓は「川手櫓」です。豊川ギリギリに建っていました。もちろんこちらは現存していません。
現在、石垣の補修が行われていています。
本丸御殿の右手の方に本丸井戸の遺構があります。
園内にはざくろが花をつけていました。
二の丸御殿跡の碑です。
吉田藩祖豊城神社の碑
豊橋公園内にある三の丸会館
その庭園
その三の丸公園で吉田城の御城印を買うことができます。以前は公園内の美術館で販売していましたがこの6月から閉館しているのでこちらに販売場所が移っています。ただし、ここでは日付も記入してもらえません。サービスが低下しています。
豊橋市役所の一本南に大手門跡の碑がありました。
豊橋のマンホールの蓋です。市電がデザインされています。
因みに消火栓は手筒花火がデザインされています。
コース上にヤマサちくわの本店がありました。
同じ並びにある地元のスーパー「サンヨネ」の本店です。
さて、昔豊橋ダイエーのあった広小路はすっかり様変わりしていましたが、この通り沿いには街角に多くのオブジェが残っています。
無粋な自転車
これが駅前まで続いています。まさに街かど美術館です。
今回も歴史に触れるいいウォーキングができました。