アルミン・ジョルダンのデュカス  | geezenstacの森

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アルミン・ジョルダンのデュカス

魔法使いの弟子、ラ・ペリ、交響曲

 

曲目/デュカス

1.交響詩 《魔法使いの弟子》  11:45

2.舞踏詩 《ラ・ペリ》 ファンファーレ  02:14

3.舞踏詩 《ラ・ペリ》 ラ・ペリ  19:21

4.交響曲 ハ長調 

 I.Allegro non troppo vivace,ma con fuoco  14:57

 II.Andante espressivo e sostenuto  14:37

 III.Allegro spirituoso  11:13

 
指揮/アルミン・ジョルダン
演奏/フランス放送フィルハーモニー管弦楽団 1
   スイス・ロマンド管弦楽団 2,3,4
 
録音/1984/05 ヴィクトリアホール、ジュネーヴ 2,3,4
   1984/11  ラジオ・フランス、パリ 1
仏エラート 2564699088-30
 
 
 これも先回取り上げたアルビノーニと同じようにエラート100枚ボックスに含まれている一枚です。ただし、この一枚は再発で、オリジナルとは違いますが、何度となく再発されているものです。デュカスの代表作を一枚にまとめているという点ではなかなか他にはない一枚となっています。上のジャケット写真は2003年に発売された時のものです。まあ、一般の人はデュカスといえば「魔法使いの弟子」と鸚鵡返しに返ってくるほどに結びついています。ちょっとした通でも次の「ラ・ペリ」ぐらいまででしょうか。デュカスが交響曲を書いているとはこのCDを聞くまでは知りませんでした。
 

 エラートは1980年代はBMGグループになっていましたからフランスパテと対抗して、バロック以外のフランスもののレパートリーを積極的に拡充していました。そうした流れの中でこういう作品がアルミン・ジョルダンやデュトワ、レッパードなどの指揮者を動員してカタログを埋めていました。

 

 で、このジョルダンによる「魔法使いの弟子」です。なぜこの録音のみフランス放送フィルを使って録音したのでしょうなぁ。それがイマイチ納得できないのですなぁ。悪い演奏ではないのですが、やや表現が一本調子で決して下手な演奏ではないのですが、物語の起承転結が無くのっぺりとした印象になってしまっています。

 

 

 うーん、エラートには1998年にこのオーケストラを使った佐渡裕と録音したものがありますが、そちらの方がよっぽど躍動感があります。もっとも、エラートがソース買いをした録音なので、オムニバス物には使いにくいところがあるのかもしれません。

 

 「ラ・ペリ」と交響曲は元々はこの組み合わせで発売されていました。レコードなら2曲でAB面を分けていたわけですが、こうしてCDの形になるとどうしても「魔法使いの弟子」がメインになってしまい、後の曲は添え物的な扱いになってしまいます。

 

 その「ら・ペリ」はデュカスの生前に出版された最後の作品です。この時代にあって舞台はフランスで作曲されたということは依頼人は当然ロシアバレエ団(バレエ・リュス)ですな。ゴタゴタがありましたが、円熟期のデュカスは1912年に曲を完成させます。この初演はトゥルハノヴァが妖精ペリ役として、1912年4月22日にパリ・オペラ座で行われました。結果は大成功でしたが、このトゥルハノヴァがデュカスの愛人ということで揉めたんですな。

 

 

 物語はペルシャが題材に取られています。作品としては登場人物が二人だけということで、作品としては小規模です。しかし、この曲を有名にしたのは追加で作曲された「ファンファーレ」でしょう。昔はニュース番組のタイトルとしても使われていた記憶があります。ここでのファンファーレはアンセルメ以来の伝統を感じさせる華やかなもので、スイス・ロマンドのホーンセクションは充実しています。ここでぐっと引き付けるので本編も聞き応えのある演奏になっています。

 

 

 ジョルダンは1985年からスイス・ロマンド管弦楽団の主席指揮者になっています。ここでは就任が決まっているのできっちりと手綱を引き締めた安定感のある造形でバレエ音楽としての色彩を演出しています。

 

 最後の交響曲は1895年に書かれています。フランス人というのは交響曲の形式にはあまりとらわれず、この曲も急-緩-急の全3楽章から構成になっています。ここから聞こえてくる音楽は先人たちの様式を面白いほどに取り入れています。

 フランク→ショーソン→ダンディと聴いてきて、デュカスが書いた交響曲はその流れの中で一つの渦を巻いているような気がします。フランクは循環主題を用いて全ての楽章を有機的に結合させながらベートーヴェン的な寒気に至る道程を示し、ショーソンはフランクの支流から派生してそこにフランス的な繊細さを加味させて流れを太くしました。ただ、デュカスは若い頃に描いた作品という意味では、先人たちの様式を尊重しつつも、あふれる旋律線をまるでスラーの点描画のように楽譜の中に散りばめながらも、そこに根源的な古典のシンプルさと柔軟さをうわ学しているような印象を持ちます。

 

 

 明るく、どこまで伸びやかに響き渡る第1楽章は、ハ長調という何色にも染まるパレットの中で、リズムの躍動とともに短いフレーズで次々と新しい旋律をつぎ込んで、全体としてまだここでは混沌とした世界を表出させています。その流れはしつこくてなかなか終わらないフィナーレにも表れているのではないでしょうか。そういう、音のパレットの表現をジョルダンは見事にオーレストラから引き出しています。小生など、この点にアンセルメの後継者たる存在を見出したような気がします。

 

 

 第一楽章に匹敵するような規模の緩徐楽章です。ここにあふれる苦渋を伴った旋律は、高揚することなくホ短調の調整の中で重ぐるしく響きます。ただ、チャイフスキーのような暗雲垂れ込める悲壮感はありません。そこはフランスの国民性なんでしょうな。全体としてはひとつの交響詩を聴くかのような構成で、全体の響きが構成されているような気がします。

 

 

 明るい3楽章です。先達のような深遠な雰囲気を出すようなことがなく、そこかしこにフランクに似た響きが飛び出すし、ひいてはルーセルやダンディの脳な響きも感じられます。短い印象的なモチーフがこれでもかと繰り出され、展開としてはバレエ音楽を思わせる部分もあります。