古墳時代のシンボル-仁徳陵古墳 | geezenstacの森

geezenstacの森

音楽に映画たまに美術、そして読書三昧のブログです

古墳時代のシンボル-仁徳陵古墳

 

著者 一瀬和夫

出版 新泉社

 

 世界遺産であるエジプトのクフ王のピラミッド、中国の秦の始皇帝陵に劣らない巨大な仁徳陵古墳。陵墓のため立ち入りを許されないが、明治期に描かれた絵図、ボストン美術館収蔵の仁徳陵古墳出土とされる鏡や大刀、宮内庁による調査などからその真の姿を追求する。

 

 

 本来なら、この本はこの春大阪は堺市に出かけて、仁徳天皇陵古墳を含む「百舌鳥・古市古墳群」を訪れるタイミングで読むつもりだったのですが、コロナウィルスの関係で急遽取りやめていました。

 

 この本は百舌鳥古墳群の中心である仁徳陵古墳の全容や出土品について、良くまとめられています。しかし、1976年(昭和51年)以降、より学術的な遺跡の命名法に則り「大仙陵古墳」の使用が始まっています。ただ、ここでもはそういうことをきちんと最初に説明した上で、あえての仁徳陵古墳として記述を進めています。まあ、こういう本はタイトルのインパクトがないと売れませんからしょうがないのでしょうなぁ。我々の世代はまさに「仁徳陵古墳」として教科書で学んでいますから、これでもいいのですが若い人はやはり「大仙古墳」なんでしょうなぁ。

 

 しかし、歴史好きの人間にはこの本はオールカラーで写真や図も多く掲載されているので読みやすく、見応えがあります。特に墳丘部の調査時写真は貴重です。宮内庁所轄ということで立ち入り調査があまりされていないという情報がインプットされていたのですが、この本を読む限りある程度の調査がなされていることがわかりました。本格的学術調査のレベルではないのかもしれませんが、発掘品も少なからず出土しています。驚いたのは一体どういう経緯で流出したのかは知りませんが、一部ではありますが、アメリカのボストン美術館にも収蔵されているということです。下がその仁徳天皇陵古墳で発見されたと伝えられる銅鏡(細線文獣帯鏡)、三環鈴、太刀(単鳳環頭太刀)です。

 

銅鏡(細線文獣帯鏡)、三環鈴、太刀(単鳳環頭太刀)

 

 明治初期には荒れ果てていた古墳を整備する名目で調査が行われ、内部の石室の様子なども明らかになっています。

 

 

 石室はこんな形をしていたんですなぁ。これらのレプリカは堺市の古墳博物館に展示されているようです。

 

 さて、日本の史書である「日本書紀」や「古事記」とはあまり合致しませんが、この仁徳天皇が在命していた時代はいわゆる「倭の五王」時代と比定でき、それらの資料は「宋書」で確認することができます。

 

 その最初に記された王「讃(さん)」の発音が、「おおさざき」に通じることから、仁徳天皇が「讃」ではないかという考えがあります。仁徳天皇がこの「讃」王なら、永初2年(421年)に宋の南朝に朝貢して安東将軍・倭国王にはじめて任命され、邪馬台国の時代(3世紀の後半)から約150年間途絶えていた日中間の国交を回復し、それを柱として東アジア外交を展開した国際感覚豊かな大王ということになります。また、その他に「倭の五王」の「珍(ちん)」とする考えもあります。
 「讃(さん)」王は、宋に使節を派遣した永初2年(421年)を中心に活躍し、元嘉15年(438年)には没したとみられ、単純計算で在位年数は17年ないし25年前後です。また、「珍(ちん)」王は、元嘉15年(438年)の近い年に即位し、元嘉20年(443年)には退位していて、同じく在位年数は6年前後となります。いずれにしても、『古事記』や『日本書紀』などの日本の記録とは合わないのですが、仁徳天皇を考えるうえでは重要な資料になります。

 

 

「倭の五王」が中国と交渉を持った時代、つまり西暦413年前後から西暦502年頃の5世紀前半から6世紀初頭に造られたと考えられている畿内の古墳を、時期順に列挙すると、姫命陵古墳-履中天皇陵古墳-応神天皇陵古墳-仁徳天皇陵古墳-ニサンザイ古墳となります。「倭の五王」最後の「武(ぶ)」王が雄略天皇であることは確実で、その陵は仲哀天皇陵古墳ではないかという説が強く、これらを考慮すると「倭の五王」の陵は、履中天皇陵古墳-応神天皇陵古墳-仁徳天皇陵古墳-ニサンザイ古墳-仲哀天皇陵古墳との説が一番有力なようです。

 

 

 この本の第三章では陪塚についても少々触れられています。陪塚は「ばいづか」と読み、近親者や従者を葬ったとされる大古墳の近くに存在する小さな古墳です。大仙陵古墳で宮内庁が指定・管理する陪塚は12基あります。坊主山(円墳、直径10m)、源衛門山(円墳、直径約40m)、大安寺山(円墳、直径55m)、茶山(円墳、直径55m)、永山(前方後円墳、墳丘長104m、周濠あり)、丸保山(帆立貝式、墳丘長87m、周濠あり)、菰山(帆立貝式、墳丘長36m、周濠あり)、樋の谷(円墳?、直径47m)、銅亀山(方墳一辺26m)、狐山(円墳、直径23m)、竜佐山(帆立貝式、墳丘長67m、周濠あり)、孫太夫山(帆立貝式、墳丘長56m、周濠あり)である。しかし永山古墳は規模が大きく造出しを有する前方後円墳であること、坊主山は三重濠外縁から264mと遠いことから陪塚とは考えにくいところもあります。逆に坊主山より近くにありながら宮内庁が指定していない塚廻(円墳、直径35m)、鏡塚(直径15m)、夕雲一丁南(方墳)、収塚(帆立貝式)、昭和初年頃まで存在していた帆立貝式一基は陪塚の可能性が高いとも言えます。

 

 出土品については体系付けて説明がされていますが、残念なのは肝心の古墳自体の写真が少ないのと、この陪塚のことについて写真も含めて、もう少し詳しく記載して欲しかったところです。

 

 でも、この本を片手に「百舌鳥・古市古墳群」周辺を散策するのはロマンがありそうです。ぜひ、コロナ騒ぎが落ち着いたら一度出かけてみたいものです。