キングレコード
昭和47年11、12、1月度新譜ダイジェスト2
曲目
A面
1.サルビアの花 千葉紘子
2.夜汽車 千葉紘子
3.旅の宿 寺内タケシとブルージーンズ
4.あなたにかける 寺内タケシとブルージーンズ
5.ゴッド・ファーザー ザ・キャラバンズ
6.ブラック&ホワイト ザ・キャラバンズ
B面
1.旅の宿 布施明
2.誰かが風の中で 布施明
3.赤色エレジー 布施明
4.エーデルワイスの歌 ダーク・ダックス
5.別れの朝 ダーク・ダックス
6.ドレミの歌 ニュー・キラーズ
7.仮面ライダー ニュー・キラーズ
DH 4712-2
2年前にジャンクレコードの書庫を作りましたが、手持ちにはまだまだこの手のレコードが溢れています。そこで、もう少しディープな世界を掘り下げてみます。
前回は洋楽中心でしたが、今回は邦楽のものです。末尾に2とついている物が邦楽です。この時代人気のあったキングのアーテイストたちのアルバムんからの協力版のプッシュサンプラーです。
千葉紘子は「折り鶴」のヒットに続けとばかりに当時のヒット曲をカバーしたアルバムを出していました。「サルビアの花」もともとアングラ系のURCからジャックス解散後の最初のソロ・アルバム『かっこいいことはなんてかっこ悪いんだろう』をリリースしましたが、その中に自作曲のひとつとして「サルビアの花」を収録していました。ただし、ヒットしたのは当時はプロを対象としたコンテストだったヤマハ音楽振興会主催のヤマハポピュラーソングコンテストの前身'71作曲コンクールで、オフコースの歌唱により入賞したことで知れ渡り、各社からカバーバージョンが一斉に発売されました。その中でヒットしたのが「もとまろ」のものでした。
寺内タカシとブルージーンズはエレキブームに乗って人気のあったアーティストですが、イストルメンタルで独自性がなかったので個人的にはあまり注目していませんでした。ただ、レッゴー運命とかエレキじょんがら節とかを演奏していて、テクニック的にはいいものを持っていました。
このアルバムの中でキャラバンズというグループが登場していますが、今では全く忘れ去られているバンドで、こちらもエレキのグループだったようです。曲が洋楽のカバーというのも、ちょっと安直ですが、スリー・ドック・ナイトの「ブラック・アンド・ホワイト」なんて懐かしい曲を演奏しています。オリジナルは結構古いものです。
彼らの通算3曲目で最後のNo.1ヒットである此の楽曲は、人種融合を歌った非常に前向きなメッセージを含んでおり、後半の子供達のコーラスに3人のハーモニーが被さる所が、実に印象的に展開されている作品です。1954年にデヴィッド・I・アーキンとアール・ロビンソンによって書かれた此の曲は、1957年にサミー・デイヴィス・Jr.によって初めて録音され、1971年にイギリスでジャマイカのグループ、グレイハウンドのヴァージョンがヒットして(全英6位)、それを耳にした彼らはカヴァーする事を決心したそうです。ただ、この曲wikiでも日本版は記載がありません。こんな曲です。
さて、B面は布施明から始まります。この1975年は布施明の転機の年でした。「シクラメンのかほり」が大ヒットして自信唯一のミリオンヒットになっています。この曲、本来はB面に収録するために小椋佳に依頼した曲だったのですが、こちらの方がいいと判断したプロデューサーの意向でA面に収録されています。小椋佳自身も北原白秋の言葉の中から拾い出して歌詞を書き上げていますし、エルヴィス・プレスリーの「マリー・イン・ザ・モーニング」のフレーズからも引用しているというつばはぎだらけの曲でした。そんなことで、小椋佳自信は当時はこの曲はレコーディングしていませんでした。
おっとっと、このアルバムはそれ以前の1972年の発売になるもので、布施 明自身がセレクトしたという選曲が売り(?)の、72年のベスト盤からのチョイスです。71年ごろから洋楽をリリースしていて、このベスト盤にはB面は洋楽が収録されていました。代表曲の"マイ・ウェイ"がB面のとりです。そして、A面には「旅の宿」を始め「 白いラブレター」、「瀬戸の花嫁」、「何故」が収録されていました。なぜかこの時代のこのLPは持っているんですねぇ。
多分この日本語訳で歌ったのは布施明が最初だったのではないでしょうか。他にもペギー葉山などが歌っていますが、全然別の歌詞になっていてがっかりした記憶があります。
サンプル盤ですから、次にはダーク・ダーックスが収録されています。しかし、いいものはいいですなぁ。布施明のアルバムはSKA−39という番号で、ダーク・ダックスはSKA−41で発売されています。
そして、SKA−42で発売されたのがピンキーが抜けた後のニュー・キラーズの最後のアルバムでした。ニュー・キラーズ・ファミリー・コンサートというアルバムでしたが、子供受け路線を狙って失敗したのでしょうねぇ。1974面3月31日に解散しています。