陰陽師(おんみょうじ)3付喪神ノ巻
著者 夢枕獏
発行 文芸春秋社 文春文庫
丑の刻、貴船神社に夜毎現われる白装束の女が鬼となって、自分を捨てた男を取り殺そうとする。そんな男の窮地を救うため、安倍晴明と源博雅が目にしたものは!?女の悲しい性を描いた「鉄輪」他、全七篇。百鬼夜行の平安時代。魍魎たちに立ち向かう若き晴明と博雅の胸のすく活躍、魅惑の伝奇ロマンシリーズ第三弾。。---データベース---
陰陽師安倍晴明と貴公子・源博雅が都の闇の巣食う魑魅魍魎に挑むシリーズ巻です。起承転結がシリーズを重ねるごとにパターン通りにはまり、読んでいて心地いいですなあ。古くは「千夜一夜」の世界です。事件解決に向かうところでも、晴明が博雅に
「ゆくぞ」
「うん」
「ゆこう」
「ゆこう」
しいう言葉で事件が解決の方向に向かいます。また、呪(しゅ)の説明に、
「人がそれを見、それを石と名づけて─つまり、石という呪をかけて初めて石というものがこの宇宙の中に現れるのだ」
という晴明の簡素な説明にはてつがくをかんじます。さらに、この巻では、播磨国から現れた陰陽師の蘆屋道満(あしやどうまん)が初めて登場します。
この巻には「鉄輪」が収録されていますが、この作品は後に「生成りの女」として長編作品として再登場しています。この話、長編化に当たり登場人物が別人になっていますから話としては同じようで違う展開になっています。まあ、それはそちらを四でのお楽しみというところでしょう。
章立ては以下のようになっています。
「ゆくぞ」
「うん」
「ゆこう」
「ゆこう」
しいう言葉で事件が解決の方向に向かいます。また、呪(しゅ)の説明に、
「人がそれを見、それを石と名づけて─つまり、石という呪をかけて初めて石というものがこの宇宙の中に現れるのだ」
という晴明の簡素な説明にはてつがくをかんじます。さらに、この巻では、播磨国から現れた陰陽師の蘆屋道満(あしやどうまん)が初めて登場します。
この巻には「鉄輪」が収録されていますが、この作品は後に「生成りの女」として長編作品として再登場しています。この話、長編化に当たり登場人物が別人になっていますから話としては同じようで違う展開になっています。まあ、それはそちらを四でのお楽しみというところでしょう。
章立ては以下のようになっています。
■瓜仙人
■鉄輪
■這う鬼
■迷神
■ものや思ふと……
■打臥の巫女
■血吸い女房
【瓜仙人】…帝が写経した般若心境を長谷寺に届けた帰りに源博雅が大きな柿の木の下で休んでいると、そこに一人の年老いた翁がやってきます。瓜をくれなかった下衆どもに当てつけるように、瓜の種を使って不思議な技を見せる翁。そして翁は、その晩晴明を訪ねると博雅に伝言します。
【鉄輪】…夜な夜な貴船神社に丑の刻参りに来る女。薄気味悪く思っていた神社の男たちは、ある晩、女に「願いは聞き届けられた」と嘘をつきます。しかし女は神社の男に言われた通りの格好をして、愛しい男を呪い殺しに行く鬼となってしまうのです。
【這う鬼】…四条堀川のお屋敷で働いている紀ノ遠助が、使いの帰りに見知らぬ女性から包みを預かります。女主人・貴子宛ての包みの中に入っていた物とは。
【迷神】…仲睦まじかった夫を亡くして悲嘆にくれる妻。とうとう「死んだ夫にでもいいから会いたい」と夫に反魂術を施してもらうことになります。しかし、夜になって夫が本当に現れた時、妻は。
【物や思ふと】…一昨年の歌合せの最後の対決で平兼盛に負けた壬生忠見は、悔しさから食が細くなり、とうとう亡くなってしまいます。そしてそれ以来、内裏には忠見の霊が夜な夜な現れることに。「ものや思ふと……」の話は、第一巻にも登場する壬生忠見の衰弱死から鬼になる話の後日談になっています。「忍ぶれど色にいでにけりわが恋はものや思ふと人の問ふまで」という平兼盛の歌が重要な意味を持っているが、確かこの歌は小倉百人一首にも入っていると思う。また、この歌は、その昔、「赤頭巾ちゃん気をつけて」(庄司薫著・中公文庫)を読んで以来ずっと、小生の頭に残っている歌であります。
それはともかく、言葉には言霊があり、名は呪(しゅ)であるというが、歌もまた呪であるわけで、単なる和歌(散文)と軽視はできないパワーと重要さがあるのである。歌合(うたあわせ)や歌会始めという儀式が意味を持ち、後年公家が和歌を大切に扱ってきたわけが少しわかったようなきがします。
【打臥の巫女】…都では打臥の巫女(うちふしのみこ)と呼ばれる占い女が評判になっていました。藤原兼家もこの打臥の巫女の元に通うようになってから、異例の出世を果たした一人。その兼家に、ある日この巫女が告げたのは「瓜」でした。兼家は晴明の元を訪れます。
【血吸い女房】…梅雨が終わって以来雨が降らない京。藤原師尹(ふじわらのもろただ)が神泉苑で雨乞いの宴を催すのですが、しかしそれ以来、師尹の屋敷に勤めている女房たちが夜になると血を吸われるように。師尹は晴明を呼び出します。
この陰陽師シリーズ。平安時代が舞台ですが、その書き出しの部分で晴明の屋敷の庭に策草花が数々紹介されています。春先には、木犀、露草、一人静、胡蝶花(しゃが)そして桜、夏は藤、下野草、女郎花、そして秋には萩、桔梗、芒(すすきなどが季節を彩り咲いていますが、それは無秩序のようで晴明の意思のようにさいているのです。そして、晴明はそれらの花を式神として自由に扱うのです。これがまた幻想的です。
この小説を読み始めるまで、平安時代には全くと言っていいほど興味はありませんでした。晴明が式神に使いそうな草花もさることながら、今とは全く違う1千年以上前の平安時代の風俗を偲べば、日本にもこういう時代もあったのだと納得してしまいます。
考えてみればハッと気付く、ということが多くて。娯楽の形が今とは全く違います。当然、記録として残っているのは、当時の宮廷周りの出来事が中心なんで、高貴な遊びしか伝わっていません。
晴明のパートナーである博雅も管弦の名手ですが、音楽を楽しむのもすべて当人の演奏なんですよ。
これすごいことですよね、おそらく当時の人びとは今の我々よりも耳が音に敏感だったはずです。
ですから、名手の手による笛だとか琴の音を聴けば、さぞかし幸せな気分になれたのではないでしょうか。これはある意味、うらやましいなあと思います。
文明が遅れているほうが幸せな部分もあるということです。芸術なんて特にそうかもしれません。
堀川の橋にあたりで博雅が夜中に笛を吹いて歩けば、やんごとなき姫君が牛車に乗って建物の陰に控えながら聞き惚れているかもしれない。今と違って真っ暗だから音がなければ見つからない。
光が少ないということは、闇に対して人が敏感であるということです。
そういえば、本作ではあらためて「呪(しゅ)」がこれでもかと説明されていました。
呪とは、それに相対するものの心によって作られる縛りのことだと理解しています。たとえば自分が好きな女性を友達に知られたとするとそれだけである程度縛られています。また、言葉はそれ自体が呪になるのではなくて呪を盛るための器だとも書かれています。やはり呪とは心の世界なのです。そして、現(うつつ)の物事が現代より極めて少なかった当時にこそ、恋愛はもちろん社会における呪(しゅ)の占める幅が大きかったのではないかと思うのですね。
もっとも、小生だってまだまだ博雅が「わからん」と言っているのと同じようなレベルなのですが。