ぷらっと大垣通行手形と巡る水都大垣 3 | geezenstacの森

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いよいよ大垣城に入ります。この城に来たのは初めてのことです。城マニアでもなく、関ヶ原の合戦にもさほど興味が無いのでこの城がどういう役割を果たしていたのかも、訪れるまでは全く知りませんでした。

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入り口脇の「大垣城趾」の碑
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大垣城は連郭複合式の平城で、最盛期の規模は現在の敷地の広さからは想像もできない、4充の水堀を巡らした総構えの城脱多様です。別名「麋城(びじょう)とも「巨鹿城」とも呼ばれています。

 元となる城は1500年に竹腰尚綱によって揖斐川(牛屋川)東河岸にあった牛屋に築かれた牛屋川を外堀の代わりに利用し本丸と二ノ丸のみであった「牛屋城」だそうですが、諸説あってはっきりしません。その後幾多の武将がこの地を拠点に活躍しています。まあ、ここが交通の要所であったことだけは確かなようで、東総門から西総門にかけて、総堀の中の郭を美濃路が抜けていました。

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大垣城では2000年(平成12年)に開催された、決戦関ヶ原大垣博では、テーマ館の一つとして使用されていました。城内にはその時に使用された展示が引き続き鑑賞出来ます。

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関ヶ原の合戦では当初石田三成がこの大垣城を本拠に考えていたようです。

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 再建された大垣城の鯱瓦
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 関ヶ原の合戦前夜の東西の勢力図、青が西軍です。

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 関ヶ原の戦いの戦いの直前の石田三成をはじめとする西軍の武将による連署禁制の書が見られます。小西行長、宇喜多秀家、島津義弘、池田輝政など、関ケ原の戦いで活躍した武将の名前があります。ここ大垣城でまさに関ケ原の戦いが起きようとしていたことが分かります。

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 関ケ原の戦いにおいて西軍・石田三成が本拠地を置いたこの大垣城から、東軍が陣をおいた岡山(現在のお勝山)までは約5キロしか離れていませんでした。

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 関ケ原の戦いの前日、9月14日に起こった杭瀬川の戦いを再現したジオラマです。
関ケ原の戦いの前哨戦にあたるこの戦いでは、西軍が大勝しました。

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 館内には火縄銃や槍、弓が展示されていて、実際に触ることが出来ます。