ぷらっと大垣通行手形と巡る水都大垣 2 | geezenstacの森

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 再び、駅前の大通りに戻ります。駅に戻る方向に進むと水門川に戻ります。上野千洲の7番の地点です。ここの橋は、新大橋といい、橋のたもとには芭蕉の句碑があります。

 この水門川遊歩道は大垣駅前東の錦町愛宕神社から俳聖松尾芭蕉の「奥の細道むすびの地」を終点に総延長2,200メートルで、現在は松尾芭蕉が元禄2年(1689年)に、江戸深川から600里(約2,400キロメートル)を5ヶ月間にわたって巡遊し、『奥の細道』をここ大垣で結んだことをこの四季の路になぞらえ、「ミニ奥の細道」として整備しましています。

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 で、ここは7番目の句碑が置かれています。それが「尾花沢」で、
「涼しさを 我宿にして ねまる也」
の句が刻まれています。

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大通りを反対側に渡ります。

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駅前には「大垣共立銀行」のほんてんがあり、現在ではこの大通りは、「OKB通り」と呼ばれています。この直ぐ先にハムカツを貰った吉田ハム本店があります。

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 少し進んで右手に折れると、路地の間からいきなり大垣城の天守が顔を見せます。

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 大垣城 東門。天守が復興された際に、七口之門の 1つである柳口門がここに移築されました。

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 上の門の直ぐ右にある櫓です。戦前は国宝に指定されていた艮隅櫓(うしとらすみやぐら)。全盛期にはこういった櫓が10を数えたと言われています。

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 この東門を潜ると、目の前が天守です。

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 大垣城は美濃守護・土岐一族の宮川吉左衛門尉安定により、天文4年(1535)に創建されたと伝えられています。関ケ原の戦いでは、西軍・石田三成の本拠地となりました。その後、戸田氏が十万石の城主となり明治まで太平の世が続きました。昭和11年(1936)に国宝に指定されましたが、昭和20年(1945)7月戦災で焼失しています。昭和34年(1959)4月、4層4階の天守が再建され、今では城下町大垣のシンボルとなりました。

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 こちらは西北にある戌亥櫓



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 関ケ原の戦いの際、西軍に属していた大垣城も東軍による猛攻を受けました。落城寸前の大垣城から脱出し、この戦いの様子を語り継いだ女性…おあむ(おあん)は、城からの脱出の際、この松から堀の「たらい」へ乗り移ったと言われています。このおあむが見てきた大垣城 籠城戦の様子は、『おあむ(おあん)物語』として後世に伝えられています。城内にはその一部が展示されています。




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 大垣城天守台の石垣は自然石を積んだ初期城郭の様式を残しています。いわゆる「野面積み」の石垣ですが、これが実は全国的にも大変珍しい石灰岩の石垣なのです。大垣城の石垣は古生物の化石の宝庫ということですね。ここが大変珍しいところです。石垣のあちこちに、フズリナ、サンゴ、ウミユリ、ペレロホン、シカマイア・・・といった化石が見られます。「お城の石垣で化石ウオッチング」・・・なんてこともできますよ。

 さて、升手形でいよいよ天守内に入ります。