名鉄ハイキング/晩秋の明治村3 | geezenstacの森

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名鉄ハイキング/晩秋の明治村3

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 明治村4丁目の道沿いに進んで行くと右手に「ハワイ移民集会所」左手に「ブラジル移民住宅」が見えて来ます。 アメリカ・ハワイ州ヒロ市に明治22年(1889)頃建築された日本人牧師岡部次郎氏によって日本人のために建てられた教会であした。その後、周辺の日本人の集会所となり、さらにヒロの英字新聞社の倉庫として使われるに至っていました。移築にあたっては集会所時代の写真に基づいて復元されています。建物右手にはハワイ王国の国旗です。建物左手の鐘は「ペペケオ耕地の鐘」といい、移民たちは毎朝4時半にこの鐘で起床し、朝6時の開始の鐘から昼の30分の休憩をはさみ夕方4時半の終了の鐘まで10時間の肉体労働に従事した辛い記憶の鐘です。建物右奥にある白い「×」印のものはさとうきびを運んだシュガートレインの「踏切」の標識だそうです。

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 明治41年(1908)の日米紳士協約により、アメリカへの新規移民が大きな制約を受けるようになると、代わって南米への移民が開始され、明治41年(1908)には781名の日本人が契約労働者として「笠戸丸」ではじめてブラジルへと渡航、サンパウロ周辺でコーヒー栽培に従事しはじめます。その後、ブラジルへの移民は年々増加し、昭和初年の最盛期にはその数は年間二万数千人にも及んだということです。この「ブラジル移民住宅」には「笠戸丸」の模型が展示されています。

 この「笠戸丸」は実に数奇な運命をたどっています。最初は1900年(明治33)ロシア船「カザン」としてイギリスで建造されますが、日露戦争に海軍の病院船として参戦し、旅順港で被爆して座礁、明治38年(1905)日本海軍が接収します。翌39年(1906)東洋汽船に貸し下げられ、ハワイ移民、ペルー移民、メキシコ移民、そしてブラジル移民の渡航に使用された後、同41年(1908)12月に海軍に返却されています。翌年、今度は大阪商船から借用願いが出され、神戸基隆線に就航、同45年(1912)同社に払い下げられてから日台航路に使用されました。昭和に入ると、病院船として揚子江へも往復したりしますが、カルカッタ航路最初の就航船としての任務を終えた後、大阪商船から水産会社の手に渡り、蟹工船として使われることになります。以後、北洋の水産母船として昭和20年(1945)まで活躍するのですがが、同年8月9日、ソ連の対日宣戦布告と同時に、西カムチャッカの海底に沈められてしまいます。

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 「ハワイ移民集会所」直ぐ脇には、東京都蒲田・神奈川県川崎間の六郷川(多摩川下流)に架けられていた「六郷川鉄橋」があり、そこには明治30年(1897)に建造された「尾西鉄道蒸気機関車1号」が鎮座しています。明治5年、日本に初めて鉄道が開業された時、新橋横浜間に造られた大小22の橋は全て木橋でした。それはイギリスから鉄材を輸入して組み立てていたのでは、間に合わないという理由であったようです。開通の後、複線化の計画と共に鉄橋への架け替えが進められ、明治10年11月、日本最初の複線用鉄橋として、この「六郷川鉄橋」が完成しています。開通式は、時の工部卿伊藤博文も出席して、盛大に行われたと伝えられています。明治8年(1875)英国リバプールのハミルトンズ・ウインザー・アイアンワークス社で製作されています。明治45年、東海道線の複々線化に際してこの鉄橋は外され、単線用に改造された上、大正4年、御殿場線の酒匂川にかけられます。そして昭和40年、酒匂川でもその役目を終え、その後この明治村に再び複線用に再改造されて移設されています。

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 尾西鉄道蒸気機関車1号」は、尾西鉄道が開業するにあたり、アメリカのブルックス社から購入した機関車です。形式は2B1とよばれる前輪2軸、動輪2軸、従輪1軸のタンク式です。尾西鉄道は明治29年に会社設立、明治31年には愛知県西部の弥富―津島間が、同33年には弥富―新一宮間が開業します。大正14年に尾西鉄道と名古屋鉄道(名鉄)が合併した際、この車両は名古屋鉄道の所有になり、その後新潟県の信越線二本木駅に隣接する日本曹達株式会社内の工場専用機として入替作業に従事していました。いい面構えをしています。

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 明治村で一つのポイントとなるのが「宇治山田郵便局」でしょう。何しろこの郵便局は今でも営業しています。ここでは、切手・ハガキの販売、郵便、貯金などの通常窓口業務を行っている他、ここにしかない「~未来への手紙~はあとふるレター」のサービスも行っています。まるでタイムカプセルの様なもので、ここで書いた封書は10年後に指定された住所宛に届くというものです。未来の自分宛に出してみるのも良いでしょうね。ま、今回は小生はここで切手を買い求めました。丁度、IMF(国際通貨基金)及び世界銀行の年次総会が平成24(2012)年10月12日(金)から10月14日(日)まで東京で開催されることを記念して、特殊切手「2012 IMF・世界銀行年次総会」が発行されていました。このデザインは、古代の和同開珎から、現代の貨幣制度の幕開けともなった新貨条例の下で発行された金・銀・銅貨まで、我が国貨幣史の発展を見る上での代表的な題材が採用されています。まさに、この郵便局に相応しい切手セットでした。

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 また、建物の奥では明治4年に設置された書状集箱と呼ばれるポストが東京・京都・大阪内に設置されました。まあ江戸時代の目安箱に似たようなものでしたが、その後東海道に沿って。その後、郵便取扱い地域に設置された取り集め時刻が表示されているものに変わり、明治20年角柱型のポストになります。この時既に「POST」と表示されています。やがて、明治41年に鉄製円柱型のなじみ深い赤いポストに変えられています。

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 お次は明治村の地図にも載っていないものです。なんだか分りますか?これ水道管なんですね。江戸時代は結構地方都市でも水道は普及していました。いや、却ってそういうことがあだになって近代水道の普及が遅れたのかもしれません。これは名古屋の水道管ですが、設置されたのは明治44年です。なんでも、明治19年にコレラが大流行して近代水道の設置に拍車がかかったそうです。中でも一番早かったのは外国人の居住が多かった横浜で、明治20年(1887)10月17日に給水が開始されています。続いて東京は明治31(1898)年12月1日に神田・日本橋方面に通水したのを始めとして、順次区域を拡大し、明治44(1911)年に全面的に完成しています。名古屋に水道管が埋設されたのは下って大正3年だったようです。
 
 明治村まだまだ続きます。今日の音楽は溝口肇、「夏時間」です。