名鉄ハイキング/晩秋の明治村2 | geezenstacの森

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名鉄ハイキング/晩秋の明治村2

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 時間的にすべてを回ることは出来ないので、最初から決め討ちです。次は北里研究所です。東京都港区にあった建物で、日本の細菌学の先駆者北里柴三郎が大正4年(1915)芝白金三光町に建てた研究所の本館を移築したものです。木造総二階建のこの建物は本来左翼の長いL字形でしたが、移築に際し左翼屋を除いて復原しています。上下階とも廊下が建物の南面(前面)に通されているのは顕微鏡観察のための措置で、光を変化の少ない北面から採り入れる方が良いとの考えによるものだそうです。

 館内には、北里柴三郎記念室が設けられ、また、「結核との戦いの歴史」のパネル展示があります。こうして見るとこの病で、かなりの有名人が命を落としていることが分ります。二葉亭四迷、正岡子規、国木田独歩、樋口一葉、長塚節、石川啄木、そして、宮沢賢治もそうだったんですなぁ。雨にも、風にも負けなかった人が結核に倒れたのです。記念室には、野口英世からの手紙とか、志賀潔からの手紙も展示されています。赤痢菌の発見で功績があり、赤痢菌の学名(属名)は志賀に因むShigellaですが、これは主要な病原細菌の学名に日本人の名前が冠されている殆ど唯一の例となっています。

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 館内では、いま坂の上の雲ミュージアム開館5周年を記念して「明治村の中の松山」という企画展も催されています。あまり大きくアピールされていませんが、クイズラリーに参加すると松山の体感グッズが当たるようです。平成25年1月27日(日曜日)まで実施。そんなことで、道後温泉のジオラマがでーんと展示してあります。

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  芝川又右衛門邸は現在の西宮市甲東園に明治44年(1911)、大阪の商人芝川又右衛門の別荘として建てられたものです。ガイドによる説明の時間しか屋敷内に入ることが出来ず残念でしたが、和の趣の中に暖炉のマントルピースがでんとデザインされた中々斬新なデザインです。実際の暖炉は2回の座敷に設置されているそうです。

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 長崎居留地二十五番館は、長崎に3ヶ所あった居留地-東山手・南山手・大浦-のうち南山手二十五番の建物でした。この建物の最初の居住者はスコットランド出身のコルダー(Calder,John Fulton)でした。三方にベランダを廻らし、各室に暖炉を設けるなど典型的な居留地建築ですが、工法の上では古い点もあり、例えば、出入り口廻りの仕上げは化粧板を取り付けることなく、古い柱を削り出しています。また、外壁は下地板の外に下見板を張り上げ、室内側は木摺下地に漆喰を塗り、防寒・防音に効果をあげています。その他、東南アジアのいわゆる植民地建築の影響を受け、軒が深くなっているため、屋根が冗長になるのを避け、本屋根からベランダの屋根を一段下げています。中々見応えのある建物で、ダイニングルームにはノリタケチャイナの洋食器がずらりと並べられていました。本館の後ろには別館が増築され、そちらには和室も設えてあります。彼は、長崎造船所では日本初の鋼鉄船で昭和37年まで高島炭鉱と長崎を結んでいた「夕顔丸」を建造するなど、明治期日本の造船業の発展に寄与しましたが、明治25年病に倒れ、45歳の生涯を長崎で終え、現在も長崎の坂本国際墓地に葬られています。こういう造りを見ると日本を愛していたんだなぁと思ってしまいます。

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 こちらは、神戸山手西洋人住居館です。神戸市生田区山本通にあった明治20年(1887)代の建物で、長崎居留地二十五番館と同じ頃の外人住居であるのですが、雰囲気にはかなり違ったものがあります。当時神戸が横浜と並んで貿易港として発展をみせており、建物にも洗練されたものが求められたため、敷地が狭いという悪条件の中で建物をより良く見せるための工夫がこらされています。ベランダの柱を整然とは建てず、場所によって二本、三本と並べ、その間隔もまちまちにすることにより、建物に変化を持たせ実際以上に大きく見せているのです。後ろの付属屋一階には使用人の居住スペースですが、他のどの部屋とも結ばれておらず、主人家族のプライバシーと切り離されていたようです。こちらも2階部分で渡り廊下で繋がっているところが斬新です。

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 先を急いで、3丁目から4丁目に向かいますが、そのとおり道に、巨大な「台場鼻潮流信号機」が現れます。山口県下関市竹子島にあった潮流信号機で、潮の流れが激しい場所に船舶航行の安全のために設けられた信号機で腕木式信号機ともいわれる。この信号機は潮流の方向や速さを予測し船舶に伝えるものでありました。この竹子島の信号機の場合は黒い四角板が上70度の場合は東流中央期、上30度は東流初又は末期、赤い丸板が上70度の場合は西流中央期、上30度は西流初又は末期を表していたそうです。

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 日本からアメリカ本土への移民は、戊辰戦争に敗れた会津若松藩士数十名が明治2年(1869)カリフォルニア州に入植、若松コロニーを開いたことに始まると言われています。日系移民は明治中期からその数を増し、明治29年(1896)シアトル航路が開かれたこともあり、明治末から大正期にかけて最盛期を迎えます。この「シアトル日系福音教会」もその新興の住宅地の中に1907年(明治40)頃建てられたものです。大量生産による規格木材を使用して造られており、現代のプラットフォーム構法(2×4構法)の先駆的な実例です。

 当初はアメリカ人の住まいであったが、1930年代(昭和5~14)に日系移民の所有となります。アメリカに渡ってから長い苦難の年月を経て手に入れた一軒の家でしたが、第二次世界大戦時、強制収容により家を追われました。しかし、戦後は日系一世のための福音教会として使われてきて、その姿をとどめています。階段室のアーチ式窓からの入鹿池の眺めは風情があります。

 さて、この明治村も長くなりそうなので続きます。今回もバックには溝口肇の曲を流しています。曲は「キリンと月」です。