「二川宿本陣資料館」には宿場に関する資料が充実しています。二川宿は1601年(慶長6年)の東海道設定当初から、三河国渥美郡二川村と大岩村の2村で宿場として人馬継立業務を担当していました。江戸の日本橋より西に72里3町 (単位)(約283km)に位置し、東の白須賀宿とは1里17町(約5.8km)、西の吉田宿とは1里20町(約6.1km)離れており、町並は12町16間(約1.3km)の長さがありました(二川宿は6町36間、大岩町は5町40間)。二川宿には本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠が約30軒ほどありましたが、大岩町は宿ではなく町であったため旅籠は設置されていませんでした。
宿場の一番大切な役目は、公用の荷物を運ぶことでした。そのために宿場では一定の人足や馬を用意しておかなければなりません。この荷物を運ぶ業務を煮なっていたのが問屋場です。。資料館にはその問屋場の相場の一覧表が掲示してあります。




二川宿は宿としての規模は小さなものでしたが、東海道の宿ということで通行量は膨大なものでした。当時の旅人の風情とその持ち物も実際に使われていたものが展示されています。








ここには珍しく今切りの渡し(新居の関所)に近かったこともあって、当時の女手形が展示してありました。嘉永三年(1850年)白須賀宿名主の娘が舞阪宿へ行った時の女手形です。

東海道での食事の楽しみは各地の名産を食べることも含まれていたのでしょう。丸子宿の「とろろ汁」や川崎宿万年屋の「奈良茶飯」などの復元されたものも展示されています。


そして、表向きの目的は神社仏閣の参拝であったようですが、それ以外の物見遊山も楽しみの一つで、ここにある全国の温泉巡りなんてのもその楽しみにしていた人もいたのではないでしょうか。

今のように気楽な旅ではなかったのでしょうが、江戸時代が太平の世の中であったからこそ、こういう旅が楽しめたのだと思います。
二川宿の図