
彗星のごとく現われ、わずか一〇カ月で一四〇枚以上の役者絵などを残した写楽だが、「なぜ忽然と姿を消したのか?」の謎はいまだ解かれていない。版元・蔦屋重三郎との関係、時代背景などから浮上してきた浮世絵師・豊国との壮絶な闘いとは…。写楽研究の第一人者が、新たな「写楽の謎」に挑み徹底検証。--データベース---
先に読破した「写楽殺人事件」では歯牙にも掛かっていなかった写楽=斎藤十郎兵衛説を検証していくポルタージュです。著者は、映画監督の故内田吐夢氏の次男、勇作氏の妻である内田千鶴子氏です。内田吐夢氏が残した写楽に関するメモがきっかけで写楽研究に没頭します。1979年のことです。そして、1981年に著者は、幕府の公式名簿である『猿楽分限帖』と、能役者の伝記『重修猿楽伝記』に、喜多流に属する能役者として斎藤十郎兵衛が記載されていることを見つけます。この史料から、斎藤十郎兵衛の父の名は与右衛門であり、斎藤家は、代々、与右衛門と十郎兵衛の名を交互に名乗っていることが、さらに、斎藤十郎兵衛が、1761年(宝暦11年)の生まれで、写楽が浮世絵師として活躍していたことがわかります。著者は、その成果を1983年「歴史と人物9月号」に「写楽=能役者説の新資料」として発表しています。そう、1983年といえば故池田満寿夫氏がNHKの番組を通して中村此蔵説を発表した年でもあります。実はこの番組に当初内田氏も関わっていたということですが、エンターティメント性を求めた方針の変更で能役者説は無視されてしまったのです。高橋氏の「写楽殺人事件」の風潮が主力だったんでしょうな。
しかし、時代は真実を浮き彫りにしていきます。やがて、徳島「写楽の会」メンバーの斎藤十郎兵衛の菩提寺と過去帳の発見によって、実在が完璧に証明されることになります。「写楽の会」メンバーが、1997年、江戸期には築地にあった法光寺という寺が現在は埼玉県越谷に移転していることを突き止め、その寺の調査から過去帳に斎藤十郎兵衛の没年月日を発見し、報告しました。没年は「辰(文政3(1820)年)3月7日」、死亡年齢は「58歳」、俗称等は「八丁堀地蔵橋 阿州殿内 斎藤十郎兵衛事」でした。これによって没年が初めて明らかにされたのです。こういう、研究者の地道な調査の様子が第2章で淡々と語られていきます。
その斎藤十郎兵衛は、阿波藩お抱えの能役者でありながら、なぜ10カ月も江戸の芝居小屋に入り浸って、役者に生き写しの、役者の欠点を強調するかのような毒を秘めた強烈な絵を大量に描くことができたのか?当時、彼は江戸藩邸勤めのため八丁堀地蔵橋(現在の中央区日本橋茅場町)に住んでおり、大名お抱えの能役者の勤めは当番と非番が半年か1年交替のため、その非番期間を利用して絵を描くことが可能だったことが明らかになります。この時、写楽33歳。しかし、身分は現役の武士です。とても、本名で作品を発表するわけにはいきません。版元の蔦屋重三郎は、このとき絵師の歌麿と袂を分っています。時代のエアポケットの中で蔦屋のてに依って写楽が誕生します。
「東洲斎」という画号は、東の川の中島にある居室という意味である。過去帳によると、斎藤十郎兵衛が八丁堀地蔵橋に住むようになったのは、1799年(寛政11年)からで、写楽がデビューした1794年には、南八丁堀阿波藩屋敷内に住んでいました。南八丁堀の阿波藩屋敷は、現在の中央区湊一丁目あたりに位置し、八丁堀のすぐ南です。どちらも、江戸城から見て東に位置する中州の土地でした。よって、東洲斎は、名前を明らかに出来なかった斎藤十郎兵衛の住所を暗示していると解釈できるでしょう。
第3部では、著者が写楽を斎藤十郎兵衛であると判断するまでの過程を描く前半以外に、なぜ斎藤十郎兵衛が写楽となったか、そしてなぜ突然消えてしまったのか、ということを物語仕立てにした後半があるのですが、こちらではなぜ後期になって写楽作品に精彩が欠けてきているのか、ということを感覚で理解できるようになっています。当時の時代背景を関連する年表に時系列的に纏めてみました。
1761年(宝暦11年)斎藤十郎兵衛、生まれる(過去帳による)。 1733年(安永02年)蔦屋重三郎、吉原大門の前に書店を開き、はじめは吉原細見(店ごとに遊女の名を記した案内書)の販売、出版を始める。 1783年(天明03年)蔦屋、一流版元がひしめく日本橋通油町に進出。 1787年(天明07年)6月、松平定信が筆頭老中となり、寛政の改革が始まる。 1789年(寛政元年)江戸三座の一つ、森田座が破産。 1790年(寛政02年)5月、寛政異学の禁。書籍出版取締令。寛政の改革による風紀の取締りが厳しくなる。 1791年(寛政03年)3月、山東京伝の洒落本と黄表紙が摘発され、京伝は手鎖50日となり、版元の蔦屋は身代半減のとなる。蔦屋重三郎は、喜多川歌麿に、比較的取締りが緩かった美人大首絵を描かせる。 1792年(寛政04年)斎藤十郎兵衛、南八丁堀阿波藩屋敷内(現在の中央区湊一丁目あたり)に住む(過去帳による)。 1793年(寛政05年)江戸三座の市村座と中村座が破産。7月、松平定信が老中を退き、寛政の改革が終わる。12月、喜多川歌麿、蔦屋と袂を分かつ。蔦屋重三郎は、代わりとなる看板絵師を探す。風俗取締令がきびしくなる。 1794年(寛政06年)1月、控櫓による江戸三座で芝居興行が再開される。和泉屋が、豊国による役者舞台之姿絵のシリーズを始める。5月、斎藤十郎兵衛が所属する宝生座が非番となる。蔦屋、写楽作の28枚の役者大首絵を出版。7月、蔦屋、写楽画27枚出版。8月、蔦屋、写楽画11枚を出版。11月、蔦屋、写楽画58枚を出版。閏11月、蔦屋、写楽画3枚を出版。 1795年(寛政07年)1月、蔦屋、写楽画12枚を出版。蔦屋による写楽画出版が終わる。4月、斎藤十郎兵衛が所属する宝生座が詰番となる。 1796年(寛政08年)蔦屋の財務状況が悪化し、蔵版の狂歌絵本などの版権を大阪の版元に譲渡。蔦屋の関係者による写楽への言及:栄松斎長喜が、『高島屋おひさ』で、写楽の絵をあしらった団扇を描く。また、十返舎一九が『初登山手習方帖』で、凧に写楽の役者絵を書き込む。 1797年(寛政09年)5月6日、蔦屋重三郎が脚気で死去。 1799年(寛政11年)斎藤十郎兵衛、南八丁堀阿波藩屋敷内から八丁堀地蔵橋へ転居(過去帳による)。 1820年(文政03年)埼玉県越谷市の浄土真宗本願寺派今日山法光寺の過去帳に「八丁堀地蔵橋 阿州殿御内 斎藤十良(郎)兵衛」が58歳で亡くなり、千住にて火葬にしたとの記録がある。 1833年(天保04年)池田義信(渓斎英泉)著『無名翁随筆』に、東洲斎写楽の住所が記載される。
写楽がプロの絵師ではなく、アマチュアレベルであったことはよく知られています。デフォルメ技法を駆使して描かれていますが、刷り上がった絵には出版までの日数節約のためか、摺り残し部分や縁取りがいい加減なものが多々あります。初期の作品なんかは黒雲母刷りのためかバックと人物の際の処理がいい加減です。他の絵師の作品にはこういうところはあまりありませんので、蔦屋の仕事が突貫作業であったことが伺われます。構図や描写は一級品ですが、作品としては当時の豊国と比較したら一段落ちるのではないでしょうか。それでも、諸外国で高い評価を受けたために写楽作品は法外な価値を得ます。明治期以降に贋作が多数出回ったことでもそれが分ります。この本でも、口絵の10ページに掲載された「市川男女蔵の奴一平」の図版は明らかに贋作が採用されています。写楽の画号は冩樂画の画の字の中央が田になっているのが普通ですが、よく見るとこの作品だけ色も鮮やかですが画の字の上が突き抜けて普通の画の字になっています。
本の内容はそれなりに研究者の真摯な内容になっているのに、こういうところが雑になってしまっているのは出版社にも責任はあるようです。
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