きよのさん”と歩く江戸六百里 | geezenstacの森

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“きよのさん”と歩く江戸六百里

著者 金森敦子
発行 バジリコ  

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 江戸時代の有閑マダム、豪商の内儀三井清野は、羽州・鶴岡から日光、江戸、伊勢、京都、大坂、そして故郷へ、総距離2,340キロ、総日程108日の大旅行を敢行している。江戸藩邸の見学遊郭見物関所抜け買い物三昧…そのゴージャスでスリリングな「大観光グルメ旅行」を、遺された旅日記をもとに解読、追体験する。清野さんとともに、だんだんと山を越え峠を下ってみよう。---データベース---

 羽州・鶴岡の商家の内儀・三井清野(31歳)は文化14年(1814年)3月下旬、日光、江戸、伊勢神宮、京都、大坂、善光寺を巡る108日間、六百里の旅に出ます。のちに化政文化と称されるこの時代は、文化の担い手が上方から江戸や各地方へ、さらにの一般町人にも広がっていった江戸文化の成熟期にあたります。そして、平和が続いたこの時代、旅は安全なものになっていましたし、十返舎一九の滑稽本である『東海道中膝栗毛』は、1802年(享和2年)から1814 年(文化11年)にかけて初刷りされ旅行ブームを後押ししていました。さらに、お陰参りの流行で庶民の移動、特に農民の移動には厳しい制限がありましたが、伊勢神宮参詣に関してはほとんどが許される風潮もありました。

 そういう時代的背景と入り婿ですが、亭主の勧めもあって清野さんは旅に出ます。伴は下男の「八郎治」、そしてもう一人竹吉という男が同行しています。下男は清野さんの荷物持ちですから費用は清野さん持ちですが、竹吉はそうではありませんから地元の名士の旅好きの男だったのでしょう。武士では勝手に国元を離れるわけにはいきませんからね。出発したのは文化14年3月23日(1817年5月7日)です。清野さんの辿ったルートは下記の通りですが、文字通りの大旅行です。なを、清野の遠縁に幕末に名を残す清川八郎がいます。こちせも、『西遊草』という旅行記を残しています。

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 旅の最初は船旅です。鶴岡から清川まで出て、そこから最上川を舟でさかのぼり本合海からは陸路で舟形へ抜け羽州街道に入ります。旅の最初は体力温存か馬に乗ります。それにしても、旦那の辿ったルートとは逆方向での出発です。まあ、旅行記を辿っていくとそこここで祭事と出会っていますから、これはやはり計画をきちんと立てての行動であったのでしょう。しかし、最上川の舟での遡上は女性にとっては勇気のいるものです。観光船ではなく荷物の運搬船への同帯で、当時の舟には便所はついていませんから用足しの時は、舟端で尻まくりですから女性には恥ずかしさも伴ったでしょう。それでも、あえて舟を使うのですから大したものです。

 道中では細かく旅籠の様子や、町の様子を観察しています。男性の目線では気がつかない女郎のことなども事細かに記しています。簪を12本も挿した女郎を座敷に呼んで話しをしています。まあ、竹吉という男が一緒にいますから不思議なことではありませんが、普通は女連れの客の前には出てこないでしょう。そういう豪快さを併せ持った女性であったといえます。また、食べ物についても細かく、道中では饅頭とか餅などを好んで買い求めています。

 清野は豪商の内儀ですから、江戸につくと藩邸に顔を出しています。多分為替で藩邸当てに送金でもしておいたのでしょう。江戸の藩邸はそういう役割もしていました。また、江戸観光に藩士が案内役としてつくなど、商家の内儀に武士が観光案内をするという実態が描かれています。士農工商とは名ばかりで、学校で習う歴史知識とはニュアンスが違うようです。江戸の藩邸は旅行手形の発行もしていますし、大使館の様な役割を担っていたことが分かります。おもしろいのは、さすが豪商の内儀、なんと江戸の藩邸の上屋敷まで見学させてもらっているのです。上屋敷といえば藩主の奥方は江戸詰めですからここに居ます。そんな清野たちの見学を当の奥方が座敷の障子の影から覗いているという奇妙な様子まで日記に記されています。また吉原見物にも出かけ、花魁道中やら江戸や京都で反物や着物、はたまた茶碗や硯などの実用品なども大量に大人買いしています。そして品物は飛脚便で山形まで送るなど、当時の金融、物流の具体例が新鮮で、近現代というのは江戸時代から連続していることを実感します。

 日記を通じて伝わってくる「きよのさん」は、おおらかで物怖じせず好奇心旺盛な女性で、旅籠の善し悪し、食べ物の上手い不味いなどをずけずけと書き綴っています。人に見せるものではない記録なので、エッセイストやリポーターが書くおざなりの旅行記とは一味も二味も違います。一番びっくりさせられるのは江戸までは関所を通るのにちゃんと旅行手形を取っているのですが、江戸から先は出女扱いになりますから、東海道はほとんど何処でも関所破りを敢行しています。その手口もちゃんとしたためていますから当時の裏技を我々も追体験出来ます。とくに箱根の関所は小田原から引き返して大きく甲州街道の方へ迂回して三島に入っているのが分かりますし、掛川からは今度は新井の関所を避けてわざわざ秋葉山、鳳来寺を経由して新城から御油に入っています。お陰で一味違う、裏街道の様子まで我々は知ることが出来ます。また、宮から桑名の間も七里の渡しを使わずに名古屋城下から津島、佐屋を通りここから三里の渡しを利用しています。この程度なら2時間ぐらいで桑名に着きますから用足しはしなくても済んだでしょう。やはり、尻まくりはしたくなかったんでしょうねえ。そして、桑名では当然のことながら蛤を堪能しています。

 桑名では宿引きが登場します。当時はお伊勢参りが観光の基本コースですが、帰りに京都、大阪を巡るのが一般的なオプションコースです。そういう宿の客引きがここまで出張してきていて、予約を取り付けるんですね。特典は不要な荷物の先送りです。旅籠としては確実な予約が取れるし、客も余分な荷物を持って歩かなくてもいいので双方にメリットがあるわけです。なかなか賢い商売がこの時代に成立していたとは驚きです。清野さんの日記には直接はそんなことは書かれていませんが、著者の金森敦子さんがその辺のところをきちんとフォローしてくれています。清野さんが旅した当時の状況、町の様子が生き生きと再現されていて、本当に一緒に旅をしているような気分にさせられますので、ついついのめり込んで読んでしまいます。

 鶴岡の三井家の出は三重県は多気郡勢和村片野です。そんなことで清野さんはその在所に寄ります。ここは11年前に旦那の四郎兵衛も立ち寄ったところです。そんなことで、初めて旅籠以外のところへ泊まります。知りませんでしたが、江戸時代の旅人は旅籠で泊まることが義務づけられていて、それも一泊しか泊まれなかったそうです。もちろん河留や病気といった例外はありますがね。また、茶店や民家に宿泊することも禁止されていたそうです。そんなことで、旅で汚れたものを洗濯してもらっています。現代人から見ると着物の洗濯は大変だろうと思ってしまいますが、何と着物は縫い目をほどいての洗濯だそうです。いま別に「江戸庶民の衣食住」という本を読んでいるのですが、そこでも着物の作りが思ったより簡単なのに驚いたのですが、当時の女性はそういうことは手習いで覚えて簡単に出来ていたんでしょうなあ。女性の旅ならではの記述です。

 長期の連泊は江戸と京都です。心神深い清野さんは行く先々で参拝しています。しかし、現代人が興味の対象としている金閣寺や清水寺はあまり関心が無いようです。京都では祇園祭を目の当たりにしています。京都には帯屋の本店があります。鶴岡の支店を通してここにも為替が送られていたことでしょう。そんなことで京都でも盛大な散在です。意外なのは京都でも郭町を訪れます。京都にもこういうところがあったとは意外でしたが、江戸の吉原、大阪の新町とはかなり趣が違っていたようでした。

 この京都までが旅のハイライトの様で、岐路は淡々と記述しています。その中で一番興味を引くのは、やはり、関所破りです。関所抜けは正確に数えたわけではありませんが十数度しているようです。最初は緊張したのでしょうが、、後の方では関所抜けにおじけず、的確に情報を入手して、わざわざ手形を入手しているにも関わらず関所抜けを楽しんでいる風にも感じます。歩くからで消化、とにかくよく食べ、寺院を歩き回ります。そのバイタリティには頭が下がります。数々ある旅日記の中でも視点の特殊性と臆さない発言に感動すら覚えます。

 この本、所々意味不明の言葉がそのまま残ります。そんなこともあってか、かなで書かれた日記の全文が巻末に収録されています。自分で読み下すことも可能です。解読の楽しみもあります。ぜひ一度、手に取って実物をご覧下さい。