
バイオリニストをめざしていた無垢な少女が、拉致され暴行を受けて惨殺された。親たちを襲う激しい悲傷と、私的制裁への衝動。慟哭の中で崩壊する家庭。逮捕された冷酷な犯人はしかし…。相応の刑罰を免れた殺人者は、許されてよいのか?社会派推理小説の第一人者が、法と人間に鋭く迫る、衝撃の長編。---データベース---
ただタイトルに魅かれてこの小説を読みましたが、このストーリーには1989年に発生した「女子高生コンクリート詰め殺人事件」に題材をとった作品である旨が著者のあとがきに記されていました。 その触発された題材に加えて、トルストイの同名の名作のエッセンスをも取込まれたこの作品は非常に重い内容を持っています。いつもの推理小説のつもりで読み始めたらぜんぜん違い、衿を正してじっくり腰を据えて読む羽目になりました。
事件はプロローグの形で始まります。一人の中年の男が金峰山の登山道から外れた沢で遺体で発見されます。状況から凍死の疑いが濃厚です。しかし、身元を確かめるものが残されていません。この男が一体誰であったのかというのを、過去に遡って読み進めていくことになります。
本編ではいきなりヴァイオリンのレッスンに出かけた高校生の片桐優子が行方不明になります。本当にただ清純無垢でそれなりに外見が整っていて、そのせいで犯人に目をつけられただけの、本当にごくごく普通の女の子なのです。その彼女が廃屋になった倉庫で惨殺死体で発見されます。状況から数日間食べ物もろくに与えられず暴行の限りを尽くされ凄惨な陵辱まで受けて殺されたのでした。
幸い行方不明になる直前犯人らしい人間が目撃されていました。音楽評論家の泉州裕一郎が、丁度片桐宅へ訪れるとき不審な車に乗り込む男とすれ違っていたのです。警察の必死の捜査でそれらしい男が浮かび上がってきます。しかし、容疑者についてその人となりを訪ねると犯人はまだ19歳の少年ということです。泉州は男が19歳ということを聞いて愕然とします。警察の面通しで泉州は容疑者が犯人と確信します。しかし、警察には別人であると証言してしまいます。そこには秘めて泉州の決断がありました。ご存知のように19歳では少年法の適用で死刑はおろか、刑罰も軽微なもので済まされてしまいます。この国の司法制度は、悲しきかな、そういう側面が強いです。 この様な状況で泉州は私刑を選択します。
そうです。既に犯人は解っています。ですからこの小説は犯人探しやトリックを駆使した、いわゆる本格サスペンスではなく、復讐のための人間模様とそれを知らず犯人の関係者と不倫の関係になってしまうという泉州の妻の変貌ぶりを描いていきます。なぜ友人の片桐の娘にこれほどまでの私情を持つのか不思議な展開ですが、ここには複雑な関係があります。殺された優子は本来は泉州の娘だったのです。そして、彼の妻の麻里江は本来なら母親なのです。しかし、麻里江は優子を産み落としたとき医者からは悪性の癌と告げられていて余命半年の命でした。一方友人の片桐は子供に恵まれず養子を取ることまで考えていました。そこで、泉州は友人に優子を預け、尚かつ妻の病状を慮って正式に片桐の子供として出生届を出すことに決めました。
こうして、優子は泉州夫妻の手を離れたのですが、奇跡的に麻里江は回復し事情を知らない妻は真実を知って激しいショックを受けます。こういう経緯があって、麻里江は極力優子のことを忘れようとあうことも避けていました。この様な状況の中で事件が起こります。悲しみは泉州夫妻に取って同じ比重のはずですが、夫の裕一郎は当の犯人を目撃しています。自分の娘を殺した19歳の男をです。
復讐を胸に秘め彼はある計画を実行するために別荘の改造を計画します。それは、地下に防音設備の整ったオーディオ・ルームを作ることです。真実を知らない麻里江は、いつしか妻をないがしろにする様な夫のその没頭ぶりに違和感を覚えます。そんなとき冤罪を免れたということで容疑者の兄という男がお礼方々泉州家を訪ねます。これが運命の出会いでした。家具メーカーに務める浅井覚は麻里江の趣味のステンドグラスに気を引かれそこから話が弾み何時しか不倫の仲に落ちていくのです。仲のいい夫婦のちょっと出来た隙間に浅井は深く踏み込んでいったのです。
泉州の方も仕事と別荘の改築などで忙しく動き回り、妻の不貞には最初気がつきませんでした。ところが、仕事がキャンセルになり久しぶりに我が家に早く帰ると、妻は居ません。寝室には普段着が脱ぎ散らかしたままです。そして、洗濯籠にはスリップとパンティが丸めて放り込んであります。洗濯物を貯めない麻里江にしてはおかしなことです。おまけに、タンスの中のバックを調べるとホテルの名前のある紙にルーム番号が記してあります。不信が募ります。
そして6月25日、改築工事が完成するので泉州は奥秩父の別荘へ朝から出かけます。引き渡しは明日ですから今日は戻ってきません。麻里江はその日も浅いとの逢い引きを楽しんで自宅へは深夜過ぎに戻ってきました。部屋に入り今日の密事を思い出していると、そこに夫の顔がありました。
話はここから急転直下、夏樹静子お得意のどんでん返しを織り交ぜて事件の復讐劇に突入して行きます。かっとして妻に手をかけ殴りますが、麻里江は不倫の相手の名前を絶対に口にしませんでした。妻は家出をし浅井のもとへ走ります。しかし、夫からは優子殺しの事件の真実を聞かされていました。簡単に浅いと一緒になるわけには行きません。何しろ、浅井は殺人者の兄です。ましてや、殺された優子は自分の娘です。4日間思い悩みますが夫に最後の別れの電話を入れ麻里江は自殺を選択します。泉州がホテルへ駆けつけた時にはベットの上で血だらけの麻里江が横たわっていました。
娘を殺され、妻に先立たれた裕一郎は茫然自失です。しかし、心の奥底では復讐の2文字がめらめらと燃えていました。計画よりは遅れましたが9月5日、計画を実行に移します。娘を殺した浅井徹を音楽プロデューサーと偽り、呼び出してオーディションを受けることを進めます。睡眠薬の缶コーヒー取り出し彼に勧めます。眠らせて別荘に連れ込み・・・という計画でしたが彼はそれに乗ってきませんでした。計画の練り直しを考えているとき、近くでパトカーのサイレンがけたたましく鳴り響いた後、今度は救急車のサイレンです。気になってその方向に行くと、今しがた別れた透が乗っていたバイクがガードレールにぶつかり横転しています。あたりにはおびただしい血痕が付いています。復讐の対象だった徹が意識不明の重体で運ばれていきます。泉州思わず叫びます、「死ぬな」と。
しかし、徹は意識の戻らない植物人間の様な状態です。復讐のしようがありません。そんな時、麻里江の不倫の相手の浅井覚が突然現われます。この男がこそ彼の計画を狂わした張本人で、妻を死に追いやった元凶でもあるのです。泉州は沸々と湧いてくる怒りの矛先をこの男に向けることにします。幸い妻の麻里江は日記を付けていて浅井との交際の一部始終を日記に書いていました。その日記を見せるからということで浅井を奥秩父の別荘まで誘います。そして、ウィスキーに混ぜた睡眠薬で眠らせ・・・・ここからは泉州の憎悪に満ちた復讐劇の始まりです。そして、どんでん返しと続いていきます。死体は金峰山の登山道から外れた沢で発見されます。
何より、次に何が起こるかわからない……という緊張感が、読者を決して飽きさせませんね。タイトルの「クロイツェル・ソナタ」はそれなりの重要なシチュエーションで登場します。それは、1989年5月10日、ザルツブルク音楽祭で行なわれたギドン・クレーメルの演奏のライブ演奏でした。そして、この演奏を録音したテープこそが事件の真相を暴く重要な鍵となるのです。
犯人に対して、気持ちはわかる、と頷くか、それは間違っている、と首を振るか、どのような感情を抱くかは読み手に委ねられていますが、この作品の底流には古代バビロニア帝国のハンムラビ王の「目には目を」の古代からの思想が息づいています。
ところで、ストーリーにはあっと驚く結末の後、プロローグがあったようにエピローグが描かれています。そのエピローグがあることで最後の印象がごろっと変わってしまうような気がします。貴方は一体どのような感想を抱くのでしょうか。因果応報とでもいうのでしょうか。最後の最後まで考えさせられてしまいます。 もし、日本で死刑が廃止されたなら仇討ちが復活するでしょう、というこの書の解説に登場する一言が心の奥底に引っかかります。