
不遇なまま死んだ画家の妻は、その後再婚し穏やかな日々を送っていた。しかし、ある出来事を契機にその日々は乱れ始める。―2人の男の間で揺れる、女心を描いた珠玉の作品「紙碑」、人生に絶望し、死を求めていた男の姿を通して、生きることの意義を問う「途上」、伊能忠敬の実像に迫った「老十九年の推歩」など5編を収録。---データベース---
なぜか今まで文庫には収められなかった短編集の第3冊目です。このシリーズ松本清張の推理小説だと思って読み始めましたが見事に裏切られました。考えてみれば清張は推理小説の大家ではありますが、それがすべてではない事はその膨大な著作からすれば自ずと解る事です。なにしろ、芥川賞は受賞していますし、ほかにも吉川英治文学賞、菊池寛賞、日本探偵作家クラブ賞も受賞しています。守備範囲は広いんですね。そして、この短編集は正統派の作品に位置づけられる内容になっています。
◆紙碑
冒頭に収録された「紙碑」は、都立高校の教頭と再婚した妻の、売れない画家として世に出ることなく死別した前夫への秘めた愛情が胸を打ちます。A社が「現代日本美術大辞典」の出版を予定している事を知人から聞き、亡き全夫の面影を忘れられない妻の広子は、密かに出版社に出かけ編集者に画家の作品が紹介されるのかを問い合わせます。日本の主だった画家は掲載されるようですが無名に近い全夫は当落線上にいます。選考委員会の決定は予断を許しません。夫に隠れての出版社もうでは続きますが、最後には選に漏れてしまいます。それでも、画家の妻であった事を誇りに思いそのためにかけずり回った事が広子の心を見たし、定年後の教育委員会入りに窮久とする共闘の夫との離婚を決意する締めくくりの意外な一節は、同様に愛情の薄い銀行員と再婚して乾いた日常を耐える「張り込み」のヒロインを想起させて読み応え充分です。
冒頭に収録された「紙碑」は、都立高校の教頭と再婚した妻の、売れない画家として世に出ることなく死別した前夫への秘めた愛情が胸を打ちます。A社が「現代日本美術大辞典」の出版を予定している事を知人から聞き、亡き全夫の面影を忘れられない妻の広子は、密かに出版社に出かけ編集者に画家の作品が紹介されるのかを問い合わせます。日本の主だった画家は掲載されるようですが無名に近い全夫は当落線上にいます。選考委員会の決定は予断を許しません。夫に隠れての出版社もうでは続きますが、最後には選に漏れてしまいます。それでも、画家の妻であった事を誇りに思いそのためにかけずり回った事が広子の心を見たし、定年後の教育委員会入りに窮久とする共闘の夫との離婚を決意する締めくくりの意外な一節は、同様に愛情の薄い銀行員と再婚して乾いた日常を耐える「張り込み」のヒロインを想起させて読み応え充分です。
◆途上
タイトル作となった「途上」はある考古学研究者だった男が人生に絶望し、浪々の果て公営の行路病者収容所に入れられ、同居していた人間たちの人生の断面を垣間見る話です。学者が落ちぶれ、身をやつすという点に清張の嗜好があらわれているのでしょうか。人生の末路に片足を突っ込んだ人々の場末の人生が淡々と語られて行きます。最後に同室の一人が死亡し。その弔いの場で老人たちの老いさらばえた生気のない姿に接し再び生きる気力を取り戻すというストーリーですが、読み終わっても共感出来る希望が共有出来ない暗さがあります。それはまだ人生の可能性を秘めた途上の事のようです。底本には谷崎潤一郎の同名の「途上」があるのではという解説者の指摘があります。
タイトル作となった「途上」はある考古学研究者だった男が人生に絶望し、浪々の果て公営の行路病者収容所に入れられ、同居していた人間たちの人生の断面を垣間見る話です。学者が落ちぶれ、身をやつすという点に清張の嗜好があらわれているのでしょうか。人生の末路に片足を突っ込んだ人々の場末の人生が淡々と語られて行きます。最後に同室の一人が死亡し。その弔いの場で老人たちの老いさらばえた生気のない姿に接し再び生きる気力を取り戻すというストーリーですが、読み終わっても共感出来る希望が共有出来ない暗さがあります。それはまだ人生の可能性を秘めた途上の事のようです。底本には谷崎潤一郎の同名の「途上」があるのではという解説者の指摘があります。
◆老十九年の推歩
個人的にはこの作品の中で一番興味を持った作品です。これは小説というより伊能忠敬の評伝と呼んだ方がいいのかも知れません。伊能忠敬の幼年期から晩年に至るまでの足跡を事細かに資料に当たって記述しています。しかし、単なる上辺だけの評伝ではなく、そこに自身の過去を投影させ忠敬に屈折した人生観があった事を推論しています。所々に「幼な心にも人の顔色を読むことをおぼえたであろう。これはその経験のない人にはわからない」とか「わたくしにも、少年のころに、短い間だが、これに似たような境遇の経験があって(半生の記)、身につまされないでもない」とか述べています。それでも、私財をなげうって人生50歳を過ぎてからの測量にかけた半生を憧憬の目で記述しています。ただ、一方で「忠敬には学問的な蓄積がなかったとはいわないが、学者になるほどにはなかった。」と冷静に述べ、官と民の狭間で最後まで葛藤していた忠敬を冷静に評価しています。性格分析も精緻で間宮林蔵との関わりも比較の上できっちりと紹介しています。全体はクールな印象を受けますが、ここにも一人で自分の道を切り開いた伊能忠敬に敬意を表し、清張自身の人生と重ね合わせる事での自負と共感が根底に流れています。
最後の方で、忠敬測量隊班員間の不和は現今にも通じる話だとして、外国の考古学的発掘調査の日本隊における学閥対立、地位に対する嫉視、学力差からくる反目、性格の相違、人間の好悪が不和の要因になると指摘する文章をみるに、清張は自分の置かれた文壇の立場を清張なりの皮肉でさりげなく挿入している様をよむと思わずニヤリとしたくなるではありませんか。
個人的にはこの作品の中で一番興味を持った作品です。これは小説というより伊能忠敬の評伝と呼んだ方がいいのかも知れません。伊能忠敬の幼年期から晩年に至るまでの足跡を事細かに資料に当たって記述しています。しかし、単なる上辺だけの評伝ではなく、そこに自身の過去を投影させ忠敬に屈折した人生観があった事を推論しています。所々に「幼な心にも人の顔色を読むことをおぼえたであろう。これはその経験のない人にはわからない」とか「わたくしにも、少年のころに、短い間だが、これに似たような境遇の経験があって(半生の記)、身につまされないでもない」とか述べています。それでも、私財をなげうって人生50歳を過ぎてからの測量にかけた半生を憧憬の目で記述しています。ただ、一方で「忠敬には学問的な蓄積がなかったとはいわないが、学者になるほどにはなかった。」と冷静に述べ、官と民の狭間で最後まで葛藤していた忠敬を冷静に評価しています。性格分析も精緻で間宮林蔵との関わりも比較の上できっちりと紹介しています。全体はクールな印象を受けますが、ここにも一人で自分の道を切り開いた伊能忠敬に敬意を表し、清張自身の人生と重ね合わせる事での自負と共感が根底に流れています。
最後の方で、忠敬測量隊班員間の不和は現今にも通じる話だとして、外国の考古学的発掘調査の日本隊における学閥対立、地位に対する嫉視、学力差からくる反目、性格の相違、人間の好悪が不和の要因になると指摘する文章をみるに、清張は自分の置かれた文壇の立場を清張なりの皮肉でさりげなく挿入している様をよむと思わずニヤリとしたくなるではありませんか。
◆夏島
これも、歴史物に入る作品です。明治20年に起きた憲法草案の盗難事件に新たな解釈を示した作品。明治憲法が練られたという「夏島」という場所を訪れた著者が、憲法発布前にその一部が漏洩したことに対して、面白い推論を立てています。近代史にも鋭いメスを入れてきた清張の面目躍如といえる内容ですが、場所を取り違えての成り立ちはちょっと清張らしくないところもあります。それにしても、「夏島憲法起草遺跡記念碑」が横浜の日産自動車の工場敷地内にある事は知りませんでした。
これも、歴史物に入る作品です。明治20年に起きた憲法草案の盗難事件に新たな解釈を示した作品。明治憲法が練られたという「夏島」という場所を訪れた著者が、憲法発布前にその一部が漏洩したことに対して、面白い推論を立てています。近代史にも鋭いメスを入れてきた清張の面目躍如といえる内容ですが、場所を取り違えての成り立ちはちょっと清張らしくないところもあります。それにしても、「夏島憲法起草遺跡記念碑」が横浜の日産自動車の工場敷地内にある事は知りませんでした。
◆信号
世に出ることなく埋もれてゆく、地方作家たちの群像を描いた末尾の「信号」も、重い感銘を残す好編です。A氏文学賞を受賞してその後も大家として波に乗った流行作家、彼とは私大同級生で同様にA氏文学賞を受賞しながら後が続かず少年少女物語を書きながら、「小泉八雲」伝で再起を狙いながらあっけなく死んでゆく落ちぶれ作家、この少年少女物語作家にライバル心を抱き、造り酒屋の倉庫の中でライフワークである女性遍歴のノートを書き続ける地方同人作家。この三者をデパートの宣伝員という視点からその人生を見据えています。文壇との距離を置いていた清張なりの視点の描写が、この3人の活写の中でクールな視点で語られていきます。
世に出ることなく埋もれてゆく、地方作家たちの群像を描いた末尾の「信号」も、重い感銘を残す好編です。A氏文学賞を受賞してその後も大家として波に乗った流行作家、彼とは私大同級生で同様にA氏文学賞を受賞しながら後が続かず少年少女物語を書きながら、「小泉八雲」伝で再起を狙いながらあっけなく死んでゆく落ちぶれ作家、この少年少女物語作家にライバル心を抱き、造り酒屋の倉庫の中でライフワークである女性遍歴のノートを書き続ける地方同人作家。この三者をデパートの宣伝員という視点からその人生を見据えています。文壇との距離を置いていた清張なりの視点の描写が、この3人の活写の中でクールな視点で語られていきます。
内容が濃いので読むのには疲れますが、読み終わっての充実感はさすが清張と感じずにはいられません。