ラザール・ベルマン
ピアノ・リサイタル1977 in 札幌
1.バッハ=ブゾーニ:シャコンヌ ニ短調 15:17
2.スクリャービン:ピアノ・ソナタ 第3番 嬰ヘ短調 OP.23 16:33
3.スクリャービン:練習曲 第12番 嬰ニ短調 Op.8 2:15
4.ラフマニノフ:前奏曲 Op.32ー5番 ト長調 3:36
5.ベートーヴェン=ルービンシュタイン:トルコ行進曲 3:11
ピアノ/ラザール・ベルマン
P:東条 碩夫
ビクター音楽産業/MELODIYA VIC2097
ベルマンの演奏は先にカラヤンとのチャイコフスキーや超絶技巧のアルバムを取り上げています。もともと録音はあまり多くない人で、華となる協奏曲の録音は上のチャイコフスキーとジュリーニとのリスト、アバドとのラフマニノフの第3番、ラインスドルフとのブラームスの1番、ロジェストヴィンスキーとのガーシュインの作品があるくらいで、ベートーヴェンやモーツァルトは残していません。こういうところにも忘れ去られていく原因があるのでしょう。
不思議ですが、この音源はCD化されていません。1972年に札幌市民会館で行われたリサイタルのライブ録音で、彼のキャリアの中でも特に重要な記録なんですけどねぇ。このリサイタルは北海道の札幌で行われた演奏会の模様がTOKYO FMでTDKオリジナルコンサートとしてFM放送されたものが、ベルマンの強い意向により、その音源はビクターより『サッポロ・リサイタル』として発売されたものです。小生がその昔、最初に購入したラザール・ベルマンのレコードです。
ベルマンはテンポ・ルバートを多用する演奏家ではなく、イン・テンポで表現するピアニストだと思います。ここでいうインテンポは、メトロノームでリズムを刻むような物理的にテンポが一定であることではありません。自然な流れで曲の抒情感を表現し、レガート奏法によって創り出されるピアニシモの響きには荘厳さが漂います。ベルマンの超人的技巧を駆使した演奏は、まさに剛の鍵(拳)のごとくです。大きな大きな手で奏でられる音は一つひとつの鍵が明確で、重くズッシリとしたフォルティシモの打鍵はPresto(プレスト)の局面においても揺らぐことはありません。凄まじさ、力強さ、荘厳さ、そして時折儚(はかな)さを感じる、そんなベルマンならではの音楽世界に感銘を受けた方も多いのではないでしょうか。
ギレリスが「リヒテルと私が四手でかかってもベルマンには敵わない」と語ったというのは有名な話ですが、本当にとても1人で弾いているとは思えないような分厚い音です。そして、繊細な音もまた魅力。この時は、スクリャービンのエチュードに度肝を抜かれたけれど、今聴いていてもやはりそうです。ただ、ラフマニノフのプレリュードの良さは、この頃は分からなかったのだと思う。これが凄く心地良い演奏です。何故、札幌公演がレコード化されたのか謎ですが、ジャケットの帯には「これは私が最も満足したコンサートの記録だ。」 ラザール・ベルマン と書かれています。
TDKのオリジナルコンサートの音源はかなりCD化されていますが、なぜに見送られているんでしょうかねぇ。これらの一連の録音は今は評論活動をしている東条碩夫さんの一連の録音で、音の粒立ちはいいし、ベルマンの演奏の特徴であるタッチの力強さとクリアな響きが余すところなくとらえられています。最後のアンコールで演奏されたであろうベートーヴェンの「トルコ行進曲」も絶品です。通常は大体2分前後で演奏されるものですが、何とここでは3分以上かけて演奏しています。子供でも演奏できる編曲ですが、ベルマンの手にかかるとずっしりとした名曲に聴こえてします。
ラザール・ベルマンは1930年レニングラードに生まれています。一家はユダヤ系で、母はペテルブルグ音楽院でピアノを学んだ知的な女性であり、父は労働階級の人でした。ベルマンは母からピアノの手ほどきをうけたのは2歳足らずの幼い頃だったといいます。母は3歳の息子を才能コンクールに参加させ、その結果、ベルマンはレニングラード音楽院傘下の神童グループに編入を許されました。当時のソビエトの音楽教育は徹底した早期英才教育でした。まもなく一家はモスクワに転住し、ベルマンは9歳で中央音楽学校に入学を許可され、アレクサンドル・ゴールデンヴァイザー教授の門下生となります。ベルマンの演奏スタイルに最大の影響力を与えた教授は根っからのロマン派ピアニストで、じつに20年の長きにわたってベルマンのよき指導者となったのです。
1948年、ベルマンはモスクワ音楽院に入学し、大学院も含めて、8年間在学した。しかも、主なピアノ教師はずっとアレクサンドル・ゴールデンヴァイザー教授でした。モスクワ音楽院在学中、ベルマンが感化をうけたといわれるピアニストはスヴァトスラフ・リヒテルとウラディミール・ソフロニツキーだったといわれています。(ソフロニツキーも幻のピアニストといわれていたのですが、痛ましくも早逝しています。それゆえ、ベルマン以外に、ソヴィエトにはもう幻のピアニストはいないそうです)正確にいえば、1948年から1953年までベルマンはもモスクワ音楽院の学部学生として学び、次いで大学院学生となり、1957年まで在学しました。卒業と同時にベルマンはモスクワ・フィルハーモニー(オケではなく国営音楽マネジメント)に配属され、コンサート・キャリアが始まったのです。























