外国人から見ると、日本人の我慢について称賛を聞くことがある。




例えば野球やサッカー、相撲など、さまざまな分野で活躍するアスリートが、苦しい練習を我慢してこなす。




あるいは、職人さんが、辛い修行を我慢して乗り越える。



そのような生き方が素晴らしいというのである。




かつては常識だった、スポーツの練習中に水を飲むなという考え方を唱える人はもはやいない。


修行にしても、しばらく前に堀江貴文さんが、「寿司職人はもっと早く養成できる」と発言して議論を呼んだように、技術の進歩と共により効率よく習得できることも増えてくるに違いない。




我慢には、「目標達成のために必要なもの」というポジティブな面があると同時に、「イノベーションを妨げるもの」というネガティブな面もある。




いい我慢と悪い我慢の違いは何か?





脳の働きという視点から考察したい。



そう簡単に諦めないという意味の我慢は、ありとあらゆることに必要である。


やり抜く力を指標した「グリット」は、さまざまな分野で目標を達成するために重要であることが示されている。




もともとの能力が高くて、才能があっても、簡単に諦めてしまうようでは学習でも仕事でも目標を達成することはできない。




多少の困難でやめてしまうことなく、最後までやり抜く力が重要なのである。




グリットは比較的新しい考え方であるが、心理学では、伝統的に性格特性を「ビックファイブ」と指標で研究する。




このうち、誠実性は、何かを最後までやり遂げるなどの性質を表し、その中には困難があっても何かを最後までやり遂げるという我慢の要素がある。




グリットにしてもビックファイブにおける誠実性にしても、そこに関わるのは、脳の前頭葉を中心とする回路における資源配分の判断、遂行である。





どのような目標のために、どれくらい脳の回路、そして時間を振り向けるか。



その判断の適切さ、センスが問われる。


資源配分の効率性というと、最近流行りのコスパ、タイパ(タイムパフォーマンス)という言葉が思い浮かぶかもしれない。




これらの言葉は、限られた時間の中でいかに効率よく学習や仕事をこなすかという視点から、一部の人たちの間でしばしば使われる。


コスパやタイパは多くの場合表面的で、学習や仕事の深い意味や、画期的なイノベーションにはつながりにくい。


端的に言えば、コスパやタイパは誰かに命令されて学習や仕事をやらされている人が、いかに自分への負担なく課題を終わらせられるかといった工夫にすぎない。






そもそも何をやるべきか、自分で判断し、自ら遂行するという立場からすれば、単なるコスパやタイパを超えたより賢い資源配分が必要とされる。




そのうえで、時には我慢しなければ何事も成し遂げられない。




文脈や目的によっては、我慢することが大きな成果を上げるために不可欠なこともある。




その意味で、我慢は時代遅れの概念とは限らない。



また、何かを我慢するかということは、表面的な効率といった合理性だけで決まるわけでもない。




結局、我慢を意味のあるものにするためには、何をどれくらい忍耐するのか、自分自身で判断する自由が必要である。


他人に言われたからと言って、黙って我慢しているだけでは、いつまで経っても判断力が身につかない。


自ら我慢の主人になる必要はない。


適切で、深く考え抜かれた我慢をしてこそ、新しいイノベーションが可能になる。