玉電と長尾の氷 | gayasan8560のブログ

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趣味の鉄道、街歩きネタを中心としたブログです。鉄道については、主に歴史的視点からの記事が多いです。

 現在の川崎市多摩区長尾のあたりでは、明治初期から大正末にかけて天然氷が造られていました。長尾の氷は質が良いと評判だったようです。今回はそんな長尾の氷と玉電の関係についてのお話です。

 

注)カシミール3Dを用いて長尾周辺の地図をスーパー地形と地理院地図から作成。高低差を強調しています。

 

 長尾の氷が造られていたのは、旧向ヶ丘遊園の正門辺りから南武線久地駅方面の山蔭ということなので、上記地図の水色の楕円の範囲と考えられます。妙楽寺(地図内赤丸)の北側には、かなり入り組んだ谷地形がみられますが、こういうところに学校の25mプールを少し小さくしたのような溜池を造り、そこに二ヶ領用水の水をくみ上げて氷を作っていたようです。

 

写真 妙楽寺(この北側にある谷を中心として氷造りが行われていました)

 

 当初、造った氷は手車のいり人力で、後に荷馬車を使うようになり、渋谷の販売所まで2時間程度かけて運んでいたそうです。多い時には10台以上の荷馬車で運んだようですが、瀬田や目黒の坂など難所も多く相当苦労したものと思われます。

 

明治29年に玉川砂利電気鉄道の発起人が国に提出した請願書には以下のような内容が書かれていました。

 

「(前略)抑モ武州多摩川ヨリ算出スル砂利ノ東京市ニ供給スル年々ノ需要ハ実ニ其幾百万噸タルヲ算スルニ苦シム次第ニ有之且年々炎熱ノ候東京市ニ供給スル長尾製氷ニ於ケルモ又其数量

莫大ノ者ニ有之候ガ従来之レ等ノ運輸ハ一ニ馬力人力ニユルノミニシテ交通機関完備ノ今日其不便啻ニ実業者ノ慨嘆ノミニ無之随テ興業上百事ノ渋滞ヲ来シ其影響実ニ少ナカラザル次第ニ有之候(後略)」

 

 多摩川の砂利と長尾の氷の運搬に関することが並立して書かれています。なお、このときの玉川砂利電気鉄道の申請路線は、世田谷から砧村を経由して和泉に至る路線であり、後の玉電とはルートが異なります。長尾からみると、後の玉川経由よりも和泉経由の方が距離的には有利でした。

 玉川砂利電気鉄道は、その後、玉川までの路線を申請していた玉川電気鉄道と合併し(合併後の社名は玉川砂利電気鉄道)、明治35年に渋谷・玉川間の特許が下付されます。特許取得の1か月後に社名を玉川電気鉄道に変更して明治40年に渋谷・玉川間が段階的に開通します。

 玉電開通後、長尾の氷は瀬田まで馬力で運んだあと玉電に積み替えて渋谷まで運んだそうです。なぜ終点の玉川で積み込まず、瀬田の坂を上るところまで馬力で運んだのかは不明です。いずれにせよ、当初の請願書にあった長尾の氷の運搬を玉電が行うことが実現したわけです。しかし、機械製氷の普及により経済性に劣る天然氷は衰退していき、大正後半には長尾の氷造りは終焉を迎えました。玉電が氷を運んだのはわずか十余年ということになります。