取り繕うぞ! | ロバ耳ブログ 

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 寝たら回復する。一般に、寝て回復するのは体力だったりしますよねえ。もしかしたら、闇落ちしそうになっても、寝たら回復する得意体質って存在するんじゃ無いのか。自分の事を見て、そんな気がしました。
危ないところまで行っても、なんか闇耐性がある。側から見て、悩み無さそう、とか、脳天気、とか言われる人が居たら、それは恐らく闇耐性が強い人かも知れませんよ。
あと、他人が励ましてくれるのも、回復魔法なのかも知れません。近くで闇落ちしそうな人がいたら、ホイミやケアルを掛けてあげてください。



 昨日、鳥居の話が出たから、もう少し考察をしていきます。私の行ってる事が、何処にも書いてないから不安になるけど、個人的には間違いと思いますんでね。これでも、昔、従兄弟が鳥居の研究をしていたので、こっちも影響されて細々と注目はしていたんです。

先ず、鳥居は、とりあえず、結界であろうと。いつから日本人が、それを使っていたのかは判明しておらず、気がついたら、もう鳥居はあった。その原点を考えれば、やはり、これは村の門の役割りで作られたのが最初だろうな、と考えられるわけです。

そこに鳥が止まるから、鳥居、なんて言われてますねえ。


重要なのは、そこからが外と内側を分ける境目であって、村から出たら危ない。大人の目が届かない危ない領域になるから、子供たちは出て行かない様に、それが作られたのであろう、と。昔は狼もいますからね。

大人は狩りでも猟でも、そこから先に進みます。しかし、危険な外の世界に違いはありません。それこそ、生殺与奪を運に任せた神の領域って事です。


 しかし、やがて人々の安全圏は広がって行く。行ったら危ない場所も限られる様になるも、ここで外から神々がやって来る様になる。昨日は、日本では戦争が二つしか無かった、なんて勢いで言ってしまいましたが、実際には多くの戦争が起きています。物部氏と蘇我氏の戦いなんて、戦争ですよね。外国の神と氏神の。

そこで、神様が人間の社会に入って来ると、災いが起きる。と、そう考えたのだと思います。そうして神様が入って来ないよう、神社にして崇める様になる。

神社の形態が、鳥居から朝日が入り、社に差し込む様になっているので、太陽信仰にもなっている。古代のエジプトとか、そっちから来た神々と融合して行った形跡があります。
ちなみに、古代イスラエルも、同じ形態だと言われているので、そっちから来た説はありますが、私はこれは違うのでは、と今は考えています。旧約聖書が、日本をパクった側だと思う様になったのでね。



 まあ、何にしても、神様が社会に入って来たら、必ず災いが起きて、戦争になるわけですよ。今はイスラム教徒がたくさん入って来ていますが、これらは必ず災いになりますよ。日本社会は、神と仏が融合した社会では無くて、住み分けた社会形態になっているんですよ。
外の世界は神々の世界として、出来るだけ触らないようにして、内なる生活圏では、仏教って形の、生きる哲学を取り入れた。神仏習合とは言っても、確実に鳥居で分けています。


 基本的に、鳥居の向こうは危険な神々の世界なので、人は注意しないと簡単に命を落としますよね。だから入る時も出る時も、そこで心を落ち着かせてる。それが儀礼になっている。
社に向かう前には、手と口を清める。これも疫病で人口が激減して以来の風習だとかで、今でもうがいや手洗いでウイルス対策してますよね。


鳥居はまた、社までが子宮と考えられる説もあって、これも中々に面白い話です。宮の字は、そのまま女性器を指した文字だとかで、う冠が「毛」なのだとか。(違う気はするが)


つまり社は子宮であって、そこに朝日が差し込んで、新しい一日が生まれるって感じですね。アマテラスが、実は男の神だった、なんて話は、恐らくこの辺から来ている。


 どっちにしても、子供を授かる神秘の世界が、神様の領域なのは共通しています。ですので、この領域の動植物は、おいそれと人が勝手に手を加えて良いものでは無い。それが、ずっと守られて来た事で、神社内には、古代からの、その土地に最も適した植物が残されて来たと言います。周りが荒廃しても、種が残されているから、また蘇る事が出来る。

残念ながら、今は神主たちは、ここの木々を伐採して、駐車場にしてしまってますよね。まあ、間違いなく地域は祟られる。



 私の近所の稲荷神社も、綺麗に整地されて、昔の不気味な雰囲気は無くなりました。連理の木があったのですが、普通に伐採されていましたね。ドン引きです。

ここの稲荷神社は、1200年と歴史は古く、でも、大した規模のものは有りません。大きな鳥居が二ヶ所にあって、遠い方は石の鳥居です。じゃあ、この鳥居は、何故、二つもあるのでしょうか。更には、神社の境内の中に、更に小さめの鳥居があって、その奥に小さな祠があります。鳥居が並んでいたりするでしょう。

その向こうにも、別の鳥居と祠。


なんの神様を祀っているのか謎です。



 しかしこれ、鳥居が外と内を分ける境界を表しているとしたら、外側の、更にヤバめな感じの領域って事になります。つまり、人間の住む領域には、来て欲しくない神が祀られている。

写真の様に、もの凄い山奥だとか、海岸線の岩の上とか、そんなところにも社があったりしますよねえ。そこには、鳥居が幾つも作られていたりする。

これは、出来るだけ、こっちに来て欲しくない神様を祀っているんでしょうよ。


 近所には、また別の神社があって、こっちは菅原道真が祀られている。今でこそ学問の神とか良いもんぶってるけど、左遷されて七代先まで祟りに来た、ちょっとアレな神様ですからね。今は、大人しく各地の氏神になってます。


で、この氏神様に、初詣にお参りに行く理由ですけど、これが、「今年も大人しく見守っててくださいね」って意味だと思います。そして同時に、境内にある、もっとヤバめな祟り神が、それ以上人間界に行かない様に守護してくれています。氏神が地域の守り神たる所以でしょうね。


人々が、もし、この精神世界の理を忘れた時、祟り神がそこから氏神の結界も突破して、人間界に入って来てしまう。それが怖いから、結界をもう一つ増やす。この増やした結界の本数、鳥居の数だけ、人々が災いに見舞われて来た。


災いを受ける毎に、人々は鳥居を作って行った。鳥居作ろう。取り繕うの語源・・・・。ダジャレになるけど、取り繕うの語源って、そう言ふ事なんじゃ無いの?知らんけど。


繕うは、修繕、修復って意味ですしね。



今でこそ、観光で鳥居を境内にバンバン作ってるところがあるけど、それ、余計に祟られるぞ? 京都の伏見稲荷に、やたらと鳥居が並んでいるのは、それだけ災いが起きまくっていた証拠だと思います。


 そして、大阪だったら、最北端に妙見山がある。この辺は、仕置き場があったり、不気味な幽霊スポットです。この妙見山の社も、なんで、こんな山奥にあるのか。山奥なのに、なんで人々はお参りに行ったのか。ここから、能勢街道が、ずーっと大阪市内まで続いています。


恐らく、ここの神様も、出来れば大阪にやって来ないで欲しい祟り神なんですよ。思いっきり遠ざけたけど、放置してもいられず、参拝して気に掛けている。放置していると、大阪に災いがやって来る。気がついたら、またここを取り繕う事になるでしょうね。

能勢電鉄って、妙見山に向かう人の為に開通した電車ですよ。これがもう、人が少ないから廃線になってる。ここは観光地じゃ無くて、大阪の人々は必ず言って神様に挨拶をしないきゃヤバい場所です。



 神社に行って、幾つも鳥居をくぐるのが、アトラクションか何かだと思っていたら、そのヤバい祟り神に皆さんは取り憑かれる。そして、自覚のないまま、街中にそれを連れて行く事になります。



 なんで、私の国は、何処の神様を信仰していないのに、こんなに秩序立っているのか、海外でも大いに議論されていますよね。キリスト教やロシア正教、イスラム教などは、神と一体じゃないと自分たちを守れない。鳥居で生活圏の境界を作れるのは、そこが道になっているからです。

四方八方が開けた世界では、鳥居が作れない。作っても意味を為さない。



 日本人は守られた土地で、神様と一体化せず、距離を置きながら人間の社会を形成して来ました。それは、決して神様に対する信仰心が無いのでは無く、むしろ逆で、入って来る神々を、手当たり次第に崇めて祀って来た事で成立させて来た事なのであります。実は天皇を筆頭に、私たちは、とにかく信心深い民族性を持っていたのだと思いますよ。神社の形式が、その事を物語っている。



 こうなると、絶対に初詣は行かないと行けない気がして来ませんか。神様に、新年の挨拶に行く意味が、今までとは変わってしまった気がしませんか。


恐らく、そう言った精神世界の心の持ちようが、今の日本社会の有り様に深く関係していると思います。


ただ単に、鳥居を作って済む話じゃ無いですよ?



そうだ、取っ払われた鈴も、あれも絶対に元に戻させないとな。触らぬ神に祟りなし。