井上泰幸展 | ヤマダ・マサミ ART&WORK 検:ヤマダマサミ

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主に仕事に関わる、特撮、怪獣がらみのブログです。
ときどき、猫が登場します。

17-03-26
海老名市民ミュージアム「井上泰幸展」へ行ってきました。
初日ということもあって、懐かしい顔にたくさん会えました。
スタッフである三池さんとも15年ぶりぐらいかもしれませんが、井上さんの片腕だった高木さんとは20年ぶりぐらいかもしれなくて、まったく自分が引きこもった10年の間に大事な人たちと距離が出来てしまっていたと後悔します。
高木さんは84年「ゴジラ」の取材でアルファ企画へお邪魔したときはゴジラの目や口の開閉装置を作られていて、それから井上さん宅へ行く度にお会いしているので、少年じみてただ嬉しそうにしていただけの30年前のぼくを思い出して下さり、三池さんと3人で、井上さんは柔軟で頭の回転の速い人だったけど、そうとうな頑固でもありましたよね、と言う事で盛り上がりました。本人が居ないのが本当に虚しい。
しかし、だからこそ、評価を世に問う企画がかなったわけです。
井上さんの晩年の写真。
アメリカのイベントに呼ばれた時に、博物館へ出向いて自分の足を奪ったムスタングと対面した時の写真が大きく伸ばされてありました。
井上さん、笑ってますね。仇を取った、と言うより、さっぱりした顔です。高木さんの説明で、井上さんの気骨を感じて嬉しくなり、写真の井上さんの手を撫でさせてもらいました。
あの人の負けじ魂は、戦争で片足を失った痛みや心の苦痛を表に出さない事と同じように、淡々と与えられた仕事をやりきったのだと思うのです。
山田君、この足でどんな仕事が出来ると思う? そんな話を交わした事がありました。
井上さんを知っている人は、井上さんの気骨に惹かれる。
また古い資料を几帳面に残されていた。これは東宝だけでなく、日本映画の財産です。
付け加えるなら、絵コンテのようなものは実際は予算を出すために監督や製作と意思の疎通を計るために描いたもので、生前は表に出すものじゃないと頑としたものでした。
「ホビージャパン」の取材で少しだけ、口説き落とせたのですが。
今回の展示は初めて見る資料ばかりです。びっくりです。
井上さんが70年から住みついた海老名で開催した事がとても良かった。
それと奥様の彫刻も展示されて、ほっこりしました。
奥様は、井上さんが大好きで、ぽろっと、「アンソニー・クインに似ているのよ」とのろけたわけでないでしょうが、嬉しそうに仰った事がありました。仲の良いご夫婦です。
展示物の図録がすごいのでした。600部です。4000円と高いですけど、この展示会だけのものだから、行かれる方は図録を買うべきです。

九州からバスで来た大学院生が怪獣デザインを研究しているというので彼を誘ってモーレツ!仲間たちと乾杯。
井上さんの仕事が未来に繋がって、感無量です。
ありがとうございました。

 

 

 


・図録の表紙の表裏。「ホビージャパン」の取材で伺った時の井上さん。斎藤カメラマンが笑って下さい〜と言うと、ちゃんと笑ってくれる。照れて困らせたかもしれませんが良い写真です。α号は井上さんのデザインです。

 

 


・「妖星ゴラス」(62年)。壮大な夢物語のような、ぶっ飛んだSFでした。あんなすごい映画は二度と出来ないでしょう。とくに南極ジェットパイプ建造のプロセスは特撮美術の頂点です。

 

 


・「キングコング対ゴジラ」(62年)。ご本人が居ないので、どの段階で怪獣の絵を描いたのか判りません。利光さんの絵を模写したのか、自分のイメージなのか。この段階でキンゴジはボリュームがあるんですね。顔が鳥の頭のようでキンゴジそのものです。あの造型は狙いだったのだと伝わって来ます。

 

 


・「怪獣大戦争」(65年)。P-1号が意外と小さいのだけど、まずは掴みとしてビジュアルを作ったと言う感じなんでしょうね。

 

 


・「サンダ対ガイラ」(66年)。メーサー殺獣光線車の改造案。Aサイクル光線車がベースです。豊島睦さんが図面を起こしました。

 

 


・「キングコングの逆襲」(67年)。メカニコングの格納庫案。南極基地の中味です。建造物は建築家出身の井上さんの面目躍如です。まだこの段階でセットも縫いぐるみもありませんから、メカニコングはアメリカから来たデザインそのままの絵なんでしょう。

 

 


・「ゴジラ対ヘドラ」(70年)。こと怪獣デザインで言えば、既存の生物の巨大化だった東宝怪獣の路線を逸脱したヘドラの初期スケッチ。ヘドラはまさに井上さんありきです。公害病の実態へ対する井上さんなりの怒りや想いがヘドラに投影されたように思えるんです。

 

 


・「竹取物語」(87年)。蓮の花を円盤のモチーフにして荘厳なイメージを出しました。
70年に円谷英二が亡くなった頃、映画が斜陽になった事も相まって、東宝は組織を解体します。井上さんは東宝と契約していたわけでありませんので、自分の会社を作ります。テレビや展示など、幅広く仕事を広げて行く中で、東宝からお呼びがかかると参加して力を発揮されました。
良いに付け悪いに付け特撮とともに井上さんは生き抜いた、と言う事でしょう。
そう言えば、「ウルトラマンティガ」の時、ばったり東宝ビルトで井上さんと会いました。潜水艦を造っての納品だったと思います。
井上さんの人懐こい笑顔はそれ以来、見てません。