私はガンになった当初、情報をあれこれ探し再発せず、生き残るために良いと言われている様々なものを取り入れようとしました。

 

しかし、どうしても習慣になかったり、性に合わなかったりしてなかなか出来ないことがいくつかあったのです。

 

私の場合、じっとしていることが出来ないので、瞑想やじっとしているお手当てなどは苦手な方でした。

 

本やネットに掲載されている治った人がこんなことをやったと書かれていたらそれを真似してはみるが継続できない。

 

するとそれが出来ない自分はダメで再発してしまうのでは?という不安が押し寄せてくる・・・

 

皆さんも、そんなことないですか?

 

治った人や成功した人の真似をすることは大切です。

 

しかし、これだけ多くの体験談や成功法などが出ているにも拘らず、良くならなかったり、失敗する人が多いのは何故なのだろう?と私は考えました。

 

出来ないことを無理にやろうしているからのような気がしました。

 

とはいっても、良くなったり、成功しているのは事実なのでやらないよりはやった方が確率が上がります。

 

そんなことを思い自分なりの結論を出しました。

 

事を真似するのではなく、なぜ?を真似して自己最適な方法を探す。

 

やったことを真似するのではなく、何のために、どうしてそれをやったかというところを学び検証してそれを自分ができることでやる方法を創意工夫したのです。

 

例えばじっと止まって瞑想は出来ないが、頭の中を空っぽにするには走ってランニングハイにすることならできる。

 

じっとしているお手当ては苦手だが、体温を上げたり、排せつを促すという事なら、筋肉をつけたり、走って汗を出せばいいし、食箋でそれを促せばよい。

 

感謝の心が必要だと言われるが、「ありがとう」を何百回もいうのは、なんか違うような気がしてできなかったので、ありがとうという人より言われる人になる方が性に合っていると思い、人に感謝される行動をしました。

 

すると徐々に、どんなことでも少し見方を変えれば「出来る」方法があり、その“出来る”から“出来た”にプロセスが人を成長させるという事が解りました。

 

それを裏返せば、「出来ない」は自分の可能性を閉ざすことという事でもあるのです。

 

結局はすべて自分の思い込みと姿勢の問題ではないのでしょうか? 

 

出来ないことをあれこれ悩むより、出来ることをさらに広げていく方が現実性もあり簡単ですよね。

 

とはいっても、「出来る事って何があるのだろう?」などと考えてしまいますよね。

 

これらはすでに“出来ないと思ってしまう習慣“となってしまっているので、なかなか変えることは大変です。

 

私がめぐみの会で太鼓や音楽、運動や農業、カフェを始めたのは、この「出来ることをする」ということを現実化するためでもあります。

 

病気になってあれもこれも出来なくなってしまったと嘆く方がたくさんいます

 

しかし、これらのことは身体さえあれば誰でも出来るでしょう?

 

歌なんかは体力もあまり必要ないので、口さえあれば歌えない人はあまりいないですよね。

 

私も超がつくほど音程を外すのが得意ですけど、歌は唄えます()

 

まずは出来ないなんて言って自分の可能性を閉ざすのではなく、小さなできることをやってみませんか♪

 

その出来るを経験したら、次の出来るに進むことの繰り返しで未来は大きく変わってくるのです。


「感情は幸せへの呼びかけ」

怒り、悲しみ、不安、喜び

私たち人間には様々な感情があるが、これらは本来の自分からの要求のような気がする。

ちょっと分かりにくいかもしれないが、ここでいう本来の自分というのは真我。

ちょと違うかもしれないが潜在意識のようなものだ。

私たち人間は本能的にほとんどに人が幸せになりたいと思っている。

しかし、それを妨害しているのが顕在意識。

それを気づかせようとしてくれているのが感情というわけだ。


私がどうしてそうおもうようになったか?

それは、食道がんの手術後2日間人工呼吸器につながれ話すことも、食べることも、身動き一つできないという経験をしたこlとがきっかけだった。

その時私には、どうしてこうなってしまったのか?という怒りや悲しみ
このままどうなるのか?とういう不安
こうなってしまったこれまでの生き方の後悔・・・・

私の中にはすべての負の感情が沸き起こってきた。

普通であればこんなとき何らかの行動を起こしたり、気を紛らわしたり出来るのだが、この時の私の状態は“何もできない”

この感情を自分の心で処理しなければ止めどもなく降りかかってきたのだ


このとき、私が思ったのが「もしこの状態から復活できることができたのなら、絶対こうならない生き方をしよう」ということだった。

そう思ったとき、今沸き起こっている負の感情は本当の自分からの要求だと感じた。

このような感情が出ないような選択をして生きること。

そして、このような感情が出てしまったときは、その出どころを紐解き対処方法や自分の言動を
変えるきっかけとするようにした。

すると不思議なことに、負の感情が薄れ、その結果としてワクワク、楽しい、嬉しいといったプラスの感情が起こってくるようになったのだ。

そんな経験から私は感情は幸せになるための道しるべのようなものであり、それは自分のなかにあるものと思うようになった。

だから感情とは幸せになろうとする自分からの要求なのかもしれないと思うのだ。

どう生きるかは、どう死ぬか?


生きるとは人が土になる書きます。

それは何もないところからご先祖様や両親の縁があり命が産まれ、最後には土に帰り最終的にはさまざまな縁によって地球となることを意味するのだと私は思っています。

しかし、今では遺体は火葬にされるので、土に帰るのは灰くらいですね。

それはさておき、人生を考える上で「死」をどう位置づけるか?なしにはどう生きるかは語れないような気がします。

それはゴールのないマラソンを走っているようなもの。

いくら走っても、どれだけ頑張ってもゴールがない・・・・・・

それなのに走れといっても・・・・・・・

私たち人間はいつの間にか「死」を自分の生活から遠ざけてしまっています。

死ぬのは恐怖。


悲しいこと。


お別れ・・・・・

私も癌になる前、なったときは100%そう思っていたので、怖くて怖くて、悲しくて悲しくて、いつ来るかわからない家族との別れが寂しくて寂しくて、不安に慄いていました。

しかしあるとき死をゴールと決めたのです。

死とはマラソンでいえばどれだけ走ったかの結果だと。


すると、癌になる前までは一番を目指して必死に全力疾走していていたことに気づいたのです。

一番になるための他を追い抜いき、追い抜いたら追い越されないように必死に!

それなので、周りの景色すら見ることもできずに、常に他人を意識して、走り続けていた自分に出会いました。

そんな自分を遠巻きに見たとき、それは死というゴールに一刻でも早く付くことを目指していたと感じたのです。

マラソンなどの競技は何度でも走ることができますが、人生のゴールは一回きり。

距離も時間もはるかに長い道のり。

だったら、一直線に思いっきり走って力尽きるよりも、無理せずその工程の中で多くの人と関わり縁を大切にして楽しくゴールに向かいたいと思いました。

ここ最近まで生き急いできましたから(笑)

そしてゴールに近づいた時、その道のりを振り返り「良かった!」と笑いながら眠りにつけたら最高!

私は自分の人生にそんなイメージを抱いています。

人生のゴールはいつ見えててくるかわからないし、どこにあるかはわからない。

だからこそ、いま走っていることを楽しむ。

その先にある人生のゴールの瞬間をどれだけ感謝と涙に溢れる感動的なもののするために。

私はそんなことを思いながら生きています。

 

 


「なりたい自分に!」

将来どんな人間になりたいか?

どんな人生を送りたいのか?

現在様々なセミナーや自己啓発の講座や本などが出回っているが、私はなれるかなれないかのポイントは「なると決めること」だと思う。

「なりたい」と言った時点でそれは希望や願望になり、現実は違うといった単なる〝望み”となってしまうような気がします。

自分の描いた将来像に、今の自分を添わして生きることで現実になると思うのです。

だって、今不幸だと思って毎日それを引きずっていて幸せになれるはずがありませんよね。

未来は現在と切り離れた先になるのではなく、現在の積み重ねでしかないんですから。

だから、今は幸せではないけどこの先幸せな生を送りたいのなら、今の行動や思考パターンを変えることだと思いませんか?

でも中な思考パターンなんて変えられません。

なので、その将来像”幸せになった自分”を先取りするのです。

つまり行動が先で、思考はそれについてくると思うのです。

それを、まず思考から「どうしたら幸せになれるのか?」なんてことを考えて幸せになる法則のようなものを探す・・・・

私はそれが幸せになれない原因のような気がしてならないのです。

私はガンになったとき、ある時点で「ガンになる以前より幸せになる」と決めて行動を変えました。

それ以降は、多くの選択の基準をそこに置きました。

食べもの、時間の使い方、人間関係、ライフスタイル、その選択の結果はほとんどは以前と真逆だったのです。

そしてその結果

「こんな生活もありかなぁ~」

「結構楽しいかなぁ~」

「がんになって良かった!生きてて良かった!

といった具合に、思考パターンが変わって、幸せ度が大きくなり、そレと反比例して不安度が小さくなったのです。

そんな経験をとおして私が思うのは、今を否定して未来を肯定はできないということ。

今の自分が不幸だから将来は幸せになりたい。

今の社会は悪いから、未来を良くしよう。

それらは”現在の反復”での未来願望でしかありまあせん。

なので、戦いや、不安、焦りが生まれて、楽しみから遠ざかってしまう・・・・・

今の不幸も、悪い社会もすべて未来のために必要だからあると解釈して、その向こうにある幸せを探すため今の自分が幸せになる選択をすることこそが一番の近道のような気がします。

私が思う〝しなやかに生きる”とは、常識やしきたりにとらわれない柔軟な生き方をすることだ



しなやかな体、しなやかな動き、しなやかな心を大切にしている。

癌になる前の私にはまったくなかったものだ。

しなやかさより、強さを求めた!

その結果、雪のの積もった枝が折れるように、心がが「ポキッ!」と折れて鬱になり、体が「ポキッ!」と折れて癌になったのだ。

そういえば昔ボクシングをやっていた時も猪突猛進型でしなやかさはなかったなぁ~

人は強くなければいけないと思っていた。

そのためには、

弱音を吐いてはいけない。

他人に負けたくはない。

困難に立ち向かいそれに打ち勝たなければいけない。

しかし、上には上がいるので強くなれない自分に劣等感をもち、これではいけないとさらに強さを求めて行動する。

すると、

さらに強さを証明するためにの、目標を作り、それを達成する手段を考え計画を立て計画通りに行動する。

その結果、得たものをたくさん持ち手放すことが怖くて出来なくなっていたのだ。

すると人生から、楽しい・ワクワク、嬉しいといった感情がどんどんなくなってしまった。

そして癌になってからも、何年かは癌を治すために同じことをやっていた。

遊びや余裕を失っていた。

私のそのことを気づかせてくれたのが自然栽培だった。

自然には常にしなやかさがある。

自然には、目標も目的もない計画もないままに常に流れている。

そんな自らあるべく姿でいいのだとわかった。

自然体というやつだ。

それからは体も心もとても軽くなった。

力が入らないのでとても楽に生きれるようになった。

すると不思議なことに自ら然るべく姿が見えてきたのだった。


でも、まだまだ、しなやかとは言えないとも思っている。


どうしても刺激を求めて突っ走るところがある。


しかし、これから徐々に目が見えなくなってくる。


今まで通りには進めない。


90%をしめる視覚からの情報が入らなくなれば、他の感覚での思考や行動になってくる。


そうなれば長年の課題だった脱力ができるようになるかもなんて思っている。


失明したら、頑張らずに委ねる。


そうすればまた今までとは違う、しなやかな人生を手に入れられるような気かする。