先週末に参加した『ブラインドボクシング』の練習動画がホームページにアップされました。

 



 初めて1年ほど経つので、アイマスクをして鈴の音と気配で相手の位置もずいぶんわかるようになってきたかな?





 でも、ここ数ヶ月は土曜日はお米カフェ東郷食守族の営業、日曜日は東郷食守族やイベントなどでなかなか走る機会かなくなってしまったので、月一練習はスタミナ不足でバテバテになっちゃいます。



 一人では走れないから仕方がないので、今は自宅で縄のない縄跳びをやるようにしています。



私はこれまでたくさんの失敗をしてきた。

失敗の連続といってもいほどだ。

しかし、その失敗の数だけ何か新しいことを始めたような気がする。

失敗しなければ新しいものは始まらない。

人生も然り。

私にとってがんになったこと。


また、がんになる前に緑内障と宣告されたが、どうせ長くない命だから、見えなくなる前に死ぬのだからと開き直り、通院も点眼もやめてしまったこと。


それは他人からみたら失敗だと思うだろう。


でも、がんになったからこそ新しい人生を始めることができた。


また、見えなくなるまで生きれて有り難いし、またまた新しい人生を始めることができて有り難いなんて思っている。


そう思うと「失敗は成功のもと」という言葉もうなずける。

多くの人は失敗を恐れる。



それは即ち、何も新しいことはできずにそこに留まるということ。

なのに、何か良いことはないか?なんて言っている。

私は思う。

失敗しないから良いこともないし、新しい人生も見つからないのだ。

失敗することを喜ぼう♪

そして失敗を活かして次のステップへ行こう。

七転び八起き

失敗は大きな痛手だが、七転八起の精神を持った彼なら必ず立ち直る。


 そして起き上がった時には、失敗が大きな財産となる。

失敗の可能性が一つ減り、成功への可能性が一つ増えるのだ。

失敗を恐れず、楽しむ。

これからの人生でどんな失敗ができるのか?

その数だけ新しい人生が待っていると思ったら、失敗が楽しくなり、何事にも恐れず行動ができるようになる。


無敵になるということなのだ。


 

「地に足をつけた生き方をしなければいけない」

よく聞かれる言葉です。

私はサラリーマン時代には自分は地に足をつけて生きていると思っていました。

しかし、癌になってまったく地に足なんて着いていなかったことに気づいたのです。

私が足を付いていた場所は舗装されたアスファルトの上だったのです。

そこは一見平で、綺麗に見えます。

しかし、まったくの無機質で太陽が当たれば足が付けないほど熱くなり、雨が降ればすべて横に流すだけ。

結局は周りの環境次第で、足をつけようにも付けられない状態になったり、脇の側溝に流されてしまう・・・・・・・

それで地に足をつけていると言えるのでしょうか?

私はサラリーマンをやめたあとも、様々な活動をしてきましたが、あるときもう一度アスファルトの上に足をつけようとしていたことに気づきました。

では私の思う、本当に地に足をつけるとはどんな状態なのか?

それは土の上に足をつけるということ。

土というのは人間がとくろうと思っても作れるものではありません。

私たちが生まれる、ずっとずっと前からそこに存在し、そこには多くの命が介在しています。

その自然界の営みによってどんな変化にも対応できる土が出来上がっています。

〝その営みの中に足をつけること〝こそが、自分の本当の立ち位置に気づくこと。

すなわち、「地に足をつけること」ではないのでしょう?

そんな地に足をつけていれば、私たちの体を作る食べるものをつくり、心や感情をつくる感動や刺激を得ることができます。

一昔前の人たちはそうやって地に足をつけて生きてきた。

なので、体や心の病も犯罪も少なく、人間らしさや優しさがあったのではないのかと感じます。

これの時代、

アスファルトの上で生きるのか?

土の上で生きるのか?

という選択をしなければいけないような気がします。

そんなことで、これからは下に下に根をはるつもりで活動したいこうと思っています。
 

16年前のこの6月、26年間働いた(株)三越を辞めたが、その決断をしたときもうひとつの決断もした。


それは絶対にサラリーマンには戻らないということ。


組織に依存して生きることを絶ったのだ。


サラリーマンはなんだかんだ言って会社という組織に依存をしている。


それは決して悪いことではないが、私は知らず知らずのうちにそれを当たり前だと思っていたし、その看板を自分自身のもののように考え違いをしていた。


あたかも当然の権利のように。


まぁ、自分の時間や思いを削っているのだからその見返りとしては当然かもしれない。


しかし私は思う。


最初にあるべきは、他が何をしてくれるかではなく、自分が何ができるか?だと


またその気持ちがないと結局はサラリーマンに逆戻りか、戻らないにしてもうまくいくことはないと思ったから、絶対に戻らないと決断をしたのだった。


そうなると、何をしてくれるか?という心は自然となくなると思った。


そして、必然的に自分には何が出来るか?を増やしていかなければいけない環境が出来上がるような気もしたのだ。


自分に何ができるか?という心は自分がどうしたら役に立つのか探す行為。


それなので常に自分が何を出来るのかを模索していないといけない。


今のままの自分では対応できないのだから。


それは自分の可能性を広げ、未来も広げていく。


あれから16年、そうやって生きてきた。


以前の私は何をしてくれるかをまず考えていた。


それが人間の可能性も未来も奪っていくのに。


そして不満や怒りをも生み、そして癌になった。


しかし、そこから幸運にも蘇ることができた。


その一番の理由は、16年前の決断があったからだと思う。


それからの16年間を振り返って、私たち人の持っている可能性は誰しも無限大だと思うようになった。


そしてそれを阻んでいるのは、依存する心。


しかし、それを断ち切ることが出来れば、できることは自ずと増え、無限大となる。


そんなに大きなことをしなくても、まずは小さなできること、できたことをこつこつと増やしていけばいいのだ。


そんなことで今は、視覚に依存することをやめて、訓練に通ってできること、できたことを一つずつ増やしている。